注釈 (1-1)
1) 伝治左衛門
 石炭の発見者については伝治左衛門、伝治右衛門、伝右衛門 治右衛門などの説があるとされる。
(木下榮, 大牟田市史, 1939, p.298)
ただしそれぞれの根拠は不明
2)加藤丹丘(かとう たんきゅう)
 明治22(1889)4.12〜昭和20(1945).1.8。本名は義光。日本画家。大牟田七浦に生まれ、疎開先の船橋市で病没、行年58才。
 少年時代、もと柳河藩の絵師中野春翠に師事。
 明治39(1906)年に団琢磨に推挙されて寺崎広業(てらさきこうぎょう,1866-1919)の門に入る。十数年の修行を終え独立。
 昭和初期の一時三越特選部に勤務し、香淳皇后(昭和天皇妃)の御成婚式における衣装の図柄を揮毫。昭和2(1927)年、駐日フランス大使クローデル帰国の際に人物画が買い上げられる。昭和4(1929)年、英国クロスター公来日の際に、山水画が買い上げられる。
 世に出ることを厭い、展覧会に出品せず、絵画団体にも所属しなかったという。
 昭和9(1934)年に大牟田における第一回個人展を開催。その後は毎年1回帰省して、東洋美術研究会で日本画の指導にあたる。昭和17(1942)年に第3回個展を大牟田松屋にて開催。
 柳川出身の詩人北原白秋とは親交があり、昭和17(1942)年に白秋の短歌と丹丘の絵による合作が3点のみ完成。白秋歌集に挿し絵を描き出版すべく話し合いができていたが、白秋の他界により実現しなかった。
 墓地は  大牟田市松浦町墓地。法名は丹丘超空第一居士。  
(大牟田市史下巻,1968, pp.924-925; 三池・大牟田の日本画 付高島北海, 1989, pp.63-64; 大牟田文化史・年表,1986, pp.362-363)

 松浦町の墓地の所在は未確認。
3) 石炭山由来記

安政六年未六月
石炭山由来
橋本屋富五郎
(中略)
 
筑後国三池郡石炭之由来


 抑も石炭の元祖者、文明元年丑正月十五日。三池郡稲荷村の農夫伝治左衛門と申す夫婦の者あり。其の根元を尋ぬるに系図不賎。実躰之者なれども不運にして難儀に及び、薪さへ参り居候に、寒さも絶し、時に乏しく、右稲荷山へ枯れ枝拾ひ老夫の身なれば、山の頂きに出たる岩の角かたき処へ、何心な枯葉を集め、火を焚きつつ、ふと見るに、かの岩角とろとろともえければ、夫婦の者今こそ天運の開けたるとよろこび、暫し天を拝し地を拝み、其の日は急ぎ帰り、神酒を供え、家内を清め、人々へ評を致したり。老若男女、唐突の思ひをなし、大手を打ちて、古も是様の事は聞かず。其許何の恵みを受けしものか、末代に名を残すものは、其許に限る事疑ひなしと申し候。
(後略)

(大牟田市史上巻,1965, p.713)
4) 明治六年三池鉱山年報

三池石炭発見の由来


三池炭山ノ濫觴タル確説ノ可拠ナク、旧記ノ可徴ナク、其事跡頗ル模糊トシテ分明ナラスト雖モ、古老ノ説ニ、今〔明治十三年*〕ヲ去ル四百十二年前**、人皇百四[三]代***御土御門院ノ御宇、将軍足利義勝[ママ]ノ治世****ニ当リ、三池郡稲荷村ニ伝治左衛門ト云フ老農アリケル。元家系賤シカラサルモノナリシカ共、不運ニシテ農間ヘ零落、夫婦共至テ篤厚実体ナレトモ運拙ナク、不幸ニシテ窮困赤貧ニ迫リ、遂ニ日用ノ薪炭ニスラ差支、一日夫婦枯枝拾ノ為メ稲荷山ニ登リ居リシニ、折柄寒気強ク殊ニ老人ノ身ナレハ寒サニ堪ヘ兼、山ノ項[頂]ニ於テ石炭ノ角出タル所ヘ何心ナク枯葉ヲ集メ火ヲ焚ケレ□[ハ]、アラ不思議ヤ、其岩角トロトロ鎔解シテ燃ヘケレハ、□□[夫婦]ハ奇異ノ思ヲ為シ、此レ全ク天運開ケタル所ナリト□□[感涙]肝ニ銘シ、暫ク天ヲ拝シ地ヲ拝シ、悦ヒ勇ミ其日ハ急キ家ニ帰リ、神酒ヲ備[供]テ近隣ノ者ヲ招キ集メ、有リシ次第ヲ物語リケレハ、満坐ノ男女何レモ其奇瑞ニ驚キ、如斯珍ラシキ幸福ハ全ク兼々其元ノ高徳ニテ受ケ得ラレシナラン、末代迄名ヲ残スハ其元ナルヘシ、誠ニ類ヒ稀ナルコトヨト一同挙テ賞賛セリトソ。此ノ日ハ実ニ文明元己丑年正月十五日*****ノコトニテアリシト云伝フ。
(福岡県史 近代資料編三池鉱山年報, 1982,p.1)



〔〕は割注。[]は福岡県史での添字
*第一次年報から第八次年報までまとめて編集されたために、明治13年が「今」になる。cf.同書, p.(23)
**明治13(1880)年の412年前は応仁2(1468)年になる。なお大牟田市史にも鉱山年報から「三池石炭発見の由来」が引用されている(大牟田市史上巻, 1965,p.715)。そこには「今を距る五百七年前」とあるが、この「今」が何時を指しているのは不明
***明治44(1911)年に南朝を正統とするまでは、北朝が正統であるため、編集当時の数え方では土御門院は104代と数えられる(参照
****足利義勝は嘉吉3(1443) に没。文明元(1469)年は8代足利義政の治世にあたる
*****文明元年への改元は4月28日。したがって正月15日は正確には応仁3年
5) 頂きのどれかなのであろう
 一説には「「石炭発見の地」竜湖瀬墓地の山頂付近」という。(石川保: 大牟田の地名, 2003, p.165)
 ちなみに同書では「とうか」という地名について、「豊臣秀吉が高橋直次(初代三池藩主)に与えた領地の村名には『とうか』となっています。後に『稲荷』という文字を当てています。トウカはタワ、タオ、トウからきたもので、山の峰つづきの中で、西側の谷がもっとも深く深く入り込んでいる所『峠』のことと思います」と書いている。ただし稲は正かなでは「タウ」となる。峠、到下も「タウゲ」である。「とうか」という読みに「稲荷(たうか)」を当てることがありうるのか、私には判断できない。
6) 「香月世譜」に記されている
 「香月世譜」には次のように記されている。

横谷貞明記曰文明十年戌戊(ママ)三月土民共香月畑山金剛山ニテ黒石ヲ土中ヨリ掘出シ焼之其臭甚悪土民是ヲ薪トス興則コレヲ篝火ノ料トス
啓益按此黒石者所載本草綱目之石炭是也(香月世譜,福岡県立図書館蔵)

 これは「福岡藩民政誌略」の「石炭發見の年紀及沿革」の項にも引用されている。(福岡縣史資料第一輯, p.391)
 「香月世譜」を記した香月牛山啓益とは、福岡藩民政誌略によると「貞庵と號し、醫を業とす。鞍手郡植木村の産にして、中津藩に仕ふ」とされる。(福岡縣史資料第一輯,1932, p.391)
 また「横谷貞明記」とは当時の大友氏と大内氏の「權力爭奪戰の状況を記録した書」だとされるが不詳。(浅井淳:日本石炭讀本, 1941, p.209)
 因みに興則とは、「後に香月兵部少輔と稱し、周防の大内氏に屬し、終始豐後の大友氏に對抗した勇將」であるという。(同書,p.209)
7) 「日本石炭讀本」所収
 「日本石炭讀本」は次のように記している。

 福岡縣田川郡伊田町に石場といふ部落がある。その名が既に石炭場たるを示してゐるが、天正十五年(三五五年前)豊臣秀吉が島津征伐の際、前田、加藤、蒲生の諸将が田川の香春城(香春一ノ岳頂上にあつた)に據る島津方の熊井越中守を攻めた。結局落城となつたが、城士村上義信が、石場に落ちのびて潜伏中、炊爨によつて偶然石炭を發見したといふ傳説が殘っている。(浅井淳:日本石炭讀本, 1941, p.210)
8) 「福岡藩民政誌略」所収
「福岡藩民政誌略」の「石炭發見の年紀及沿革」の項に、次のように記されている。

 遠賀、鞍手石炭山の口碑には、遠賀郡垣生村に五郎太と云者あり。嘗て火糞(やきこへ)せしに、傍の石に火移り、燃えて止まず。始めて燃ゆる石と知りければ、人皆其脈を深り、穿ち採りてより、民の利益となりぬ。是石炭の發せし本なる故に、今に至って石炭を運漕する小舟を五郎太と稱すといふ(福岡縣史資料第一輯, p.391)

 火糞とは焼肥であり、肥料とするために籾殻・刈株・落葉、などを焼くこと。
 石炭輸送の船は五平太と称されることが多かったが、五郎太と呼ばれることもあったのだろうか。また五平太を発見者とする伝承は広く伝わっているため、比較的新しく作られた者ではなかろうか。
 「石炭史話」ではこの話を文明10(1478)年ごろのことだとしているが、根拠は不明。(朝日新聞西部本社: 石炭史話, 1980, p.68)登場人物は埴生村の五郎太夫である。埴生村は垣生の古い表記。cf.筑前國続風土記 巻之十四遠賀郡上 埴生村羅漢の条
 なお「福岡県史」にも同様の話が掲載されているが、五郎太ではなく五郎太夫とされている。(福岡県史第二巻下冊, 1963, p.233)
9) 「宇部小野田厚狭歴史物語」所収
そもそも石炭は、近世期の初めごろに家庭用燃料として使用が始まったもので、その発見は今の小野田市の有帆村大休の五平太という人が井戸を掘っていた時に出た土塊が、焚き火で燃え始めたことが起源で、石炭の事を「五平太」とも呼んだと伝えられる。(片山徳五郎他: 宇部小野田厚狭歴史物語, 瀬戸内物産(有)出版部(山口県大島郡久賀町), 1991, p.29)
 原典があるはずだが、未詳。
 なお、「宇部市史」(通史篇,1992)には、確認できなかった。 
10) 記されている
 所謂「諸国名産」を記した部の長門の項目に、「舟木石炭[フナキノイシズミ]〔干漆ニ似當所薪灯ニ用之〕」と記されている。ただし〔〕は割註、[]は振りがな。(松江重賴:毛吹草,竹内若校訂,岩波文庫,1943, p.181) 
11) 「石炭史話」より
 朝日新聞西部本社: 石炭史話, 1980, pp.67-68
 典拠としてあげている「高島町文化史」については未詳
12) 「大牟田市史」を参考
 大牟田市史上巻,1965, p.708
13) 大坂にまで及んだという
 大坂の物産学者である木村蒹葭堂の遺構(享和2(1802)年没)である「蒹葭堂雑録」に石炭についての記事がある。その中に「石炭[いしずみ]は中国九州等より多出せり。俗に五平太といふ。按[あんずる]に、其初五平太といへる者の掘り出せしものならん乎[か]」とある。(木村蒹葭堂: 蒹葭堂雑録, 日本随筆大成 第一期 第七巻,1975, p.160)
 享和3(1803)年初版の「本草綱目啓蒙」には、石炭の異称として「五平太」が採録されていない。(小野蘭山,本草綱目啓蒙1,東洋文庫,1991, pp.123-124)したがって、石炭を五平太と呼ぶのは比較的新しいことであり、蒹葭堂の書いたように、あくまで俗語であったのであろう。
14) 五平太と呼ばれたという

 筑豊で、古來米穀や石炭其他の物資を運んだ舟のうち、遠賀川を航行する扁平な小舟を艜*(ヒラタ)といつた。(略)ところが、艜といふ文字の字劃が多いので、藩祖黒田長政は、武人らしく率直に平太と書いたさうである。
 この平太は、御用のものは御平太と書かれ、呼ばれてゐるうちに、いつしかゴヘイダと呼び変えられ(ごく自然な推移といふべきである)、更に五平太と書くやうになつた。それが後には一般の艜をも含めてゴヘイダと呼ばれてゐるうちに、石炭を積むものが多くなって來て、とうとう石炭そのものをゴヘイダと呼ぶに至つた。
(浅井淳:日本石炭讀本, 1941, pp.227-228)
*艜は「舟帶」。舟編に帶。

15) どちらかであろう
 もちろん文明元年に石炭が発見されたという伝承に、どこまで信憑性があるか分からない。なにしろ、それを記録した最古の文書は、発見されたとされる年から390年後に書かれているのだから。ところが筑豊炭田でも、ほぼ同じ時期の文明10(1478)年に遠賀郡香月村で石炭が見つかっている。15世紀後半という時期に、三池と筑豊とで石炭の発見につながる、共通の要因があったのではないだろうか。
 単に由緒を古くしたいのであれば、日本武尊の父である景行天皇が三池の地に来たという日本書紀の記述に結び付けた伝説であっても構わないはずである。それがされてないのは、おそらく石炭利用の始まりが比較的新しいことであると広く認識されていたからなのだろう。そしてそれまでは、石炭利用が恒常的にならなかったからではないか。
16) 気候の寒冷化がある
 中世の気象環境の復元を試みた峰岸は、この時期については、寒冷化が進んだ時期だとしている(峰岸純夫:中世災害・戦乱の社会史,吉川弘文館,2001)
 日本の中世における災害情報をデータベース化した藤木は、15世紀後半から16世紀は寒冷化した時期であったとしている。(藤木久志:飢餓と戦争の戦国を行く,朝日新聞社、2001, p.15)また、次のような記述を紹介している。「明応三(1494)年中秋のころ、当州(遠江)に乱来る。‥‥村の男たちは頭をかかえて嘆き怨み、里の女たちは幼な児を抱いて逃れ去る。飢えた人々は路傍に満ち、餓死する者も数え切れないほど‥‥」(静岡県史 資料編中世,3-194 所収のものを、同書, p.89より孫引)
17) 守護職を巡って争っていた
 当時、筑後国の守護職を巡って豊後を本拠とする大友氏と肥後を本拠とする菊地氏が長期に渡って争っていた。
 長らく大友氏は筑後国守護職であったが、永享4(1432)年に、菊池持朝(もちとも)が代わって任じらた。この背景には、博多港をめぐる大友氏と大内氏・九州探題渋川氏との対立がある。
 翌年、幕府が大内持世に、大友持直とそれに協力する小弐満貞の討伐を許したので、両軍の合戦が激化し、菊池持朝も大内氏に呼応して、大友氏と筑後で戦っている(「看聞御記」)。
 寛正3(1462)年になると幕府は、菊池為邦から筑後半国の守護職を取り上げ、大友政親に与えた。これに不服だった菊池氏は寛正6(1465)年に大友氏と合戦を行っているが破れている。このとき、三池を本拠とする国人である三池氏も菊池側について戦っている。この後、幕府は大友親繁に筑後守護職を与えている。
 その後、応仁元(1467)年にはじまった応仁の乱も、地方に波及して、東軍の大友氏・小弐氏と西軍の大内氏・菊池氏も各地で争っていた。
(久留米市史第一巻, 1981, pp.650-656)
(大野美知信,新藤東洋男:三池・大牟田の歴史(補訂・拡大版),1996, pp.79-80)
(大分放送:大分歴史事典
 伝治左衛門が家柄は悪くなかったのに没落したというのは、こういった一連の戦乱に関係あるのだろうか。
18) 竹木も伐採されたという
 寛正3(1462)の土一揆を観察した僧は「山の木ども、皆みな……切られ」と記している。(「事務方諸廻請紙背文書妙」藤木久志: 飢餓と戦争の戦国を行く,朝日新聞社,2001,p.70)
 戦国大名は戦場でのさまざまな暴行の禁止令を出しており、そのことから実際には戦場では繰り返し略奪が行われていたことが分かる。(同書,p93)一方で、村々も武装し、木を切る他所者に対し、実力で懲罰を与えている。同書,p.103)

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