注釈 (3-1)
1) 採炭を開始した
 「旧柳川藩志」第十八章人物○小野春信の条には、次のように記述されている。

 小野氏初め功により三池郡平野村の内山林数百丁歩を賜ふ。享保6年11月春行其地に於て初めて石炭採掘の業を創む。平野村の南西部は山上分水嶺を以て三池藩の稲荷村と界す(渡辺村男: 旧柳川藩志, 1980, pp.945-946)
※ところで、1町=300歩≒1ha であるから、100町歩≒1km2である。かつての平野村を含む大字歴木の面積が2km2程度であるから、数百町歩賜ったのでは計算が合わない。単位が違うのであろうか。
 なおこのことを裏付ける小野家文書には次のように記されているという。

平野山は慧月院殿在役勤精付、藩事功労為嘗拝領之模様に候。右は鷹取山也。其余は買山也。石炭堀初めは享保六年丑十一月也。(大牟田市史上巻,1965, pp.720-721)
※ここにある慧月院殿とは小野春信を指す。春信の法名は慧月院殿隆興淨融大居士である。(内野喜代治編: 小野和泉と後裔, 1940, p.187)
 ところで「三池・大牟田の歴史」(大城美知信・新藤東洋男:わたしたちのまち 三池・大牟田の歴史(補訂・拡大版), 1996, p.137)でも小野家文書を引用し、同様の記述があるが、慧月院ではなく慧日院となっている。慧日院とは春信の父である隆幸の法名であるから、転記の誤りであろう。
2) その土地を拝領していた
 土地拝領についての典拠は、1)を参照のこと。 
 ところで平野山を賜ったとされるが、徴税権を伴う知行地としてではなかったと思われる。山では米がとれない訳だから課税対象が殆どなく徴税は難しいであろう。
 そうなると春信の受取ったのは土地の所有権か、その土地での採掘権ということが考えられる。もし所有権ということだったとすると、拝領以前は立花家が所有していたということになるのだろうか。また山林が私有されていた場合は、薪などを村びとが勝手に採ることができないということになるのだろうか。このあたりについて疑問は残る。
 Web Pageを検索すると、福井藩において笏谷石の採掘権を家臣に分与した事例があった。「福井藩が笏谷石の採掘権を知行の一端として八人の重臣に分与したことが知られる」(笏谷之内揚間歩検地図)というから、春信も採掘権を与えられたということではないだろうか。
 ところで春信が鷹取山だけでなく、平野村全体を知行地として拝領したという記述が見られることもある(大城美知信・新藤東洋男: わたしたちのまち 三池・大牟田の歴史(補訂・拡大版), 1996, p.136.など)。しかしこれは誤りであろう。なぜなら「柳河年表」によると、柳河藩は享保6(1721)年よりも50年前の寛文11(1671)年に知行米を蔵米制に改めているからである。

 寛文十一年 上略忠茂公代(三代鑑虎ノ誤)士族ノ配当知行ヲ悉ク蔵米下附ニ改正セラレシトキ、領内百姓ノ公役納物等ヲ免シ其代リニ此ノ夫米ヲ納メシケルヨリ始マレリ(福岡県史第3巻中冊, 1965, p.204))
 ただし例外として御両家と称される立花帯刀家(中山村、山崎村の2,300石)、立花内膳家(上内村、坂井村の1,000石)のみが、知行地をそのまま保持し続けた。(同掲書,p.206)
 また春信が鷹取山を拝領する以前から、平野村が小野家の知行地であったという記述が見られることもある(大城美知信・新藤東洋男: 続 三池・大牟田の歴史, 1993, p.85)。これも誤りであろう。小野春信とは別の系統の小野家が、一時期平野村を知行地としていたことと、混同したのではなかろうか。
 立花宗茂が柳河へ復封されたのち、元和8(1622)年に小野作左衛門(成実)が平野村のうち240石を知行地として拝領している。(小野家文書, 福岡県史近世資料編柳川藩初期(上), p.91)
 この小野成実は調姓小野氏の2代目であり、藤原姓である小野春信とは直接の関係はない。平野村の一部を賜った小野成実の先代である統実が、小野春信の5代前の小野鎮幸の養弟になった時に、氏を和仁から小野に改めたのだという。(福岡県史近世資料編柳川藩初期(下), 1988, pp.736-737)
 もちろん調姓小野氏の持つ平野村の知行地も、知行米制から蔵米制に改められた寛文11(1671)年には失われたはずである。
 なお、知行地について、用語集(高校生用のものだが)は次のように説明している。「大名が家臣に給付する土地。土地・人民の支配権は領主が握り、家臣にはその収入を与える」(山川出版社日本史用語集,1984,p.71)
3) 採炭を開始したと考えられている
 大牟田市史では小野春信が生野銀山から技術を学んだ のではないかと、推測している。(大牟田市史上巻, pp.730-732)
4) 「旧柳川藩志」によると
 渡辺村男: 旧柳川藩史,1980, p.946
5) 小野家
 小野氏の祖は藤原道長の6男の藤原長家(1005-1064)だという。その子孫である佐賀が正治2(1200)年に、大友能直をたよって豊後に下ったとされる。なお大友能直(1172−1223)は源頼朝に仕えた鎌倉時代の武将で、戦国大名宗麟を出す豊後大友氏の祖である。
 旧柳河藩志は次のように記している。

 小野和泉守初め通称弾介実名鎮幸其先は正二位権大納言藤原長家より出ず。長家の子祐家を小野の祖とす。其4代の孫佐賀正治2年2月豊後に下り大友能直の食客となる。14代の孫を、和泉とす。(旧柳川藩志, p.863)

 「大友氏諸系図」によると、大友能直は建久4(1193)年または同7(1196)年に鎮西奉行、豊前・豊後守護職に補任されたとされる。しかしこれは誤りで、補任は建永元(1206)年ころのことと推定されるという。(大分放送:大分歴史事典
 更に、大友氏が豊後へ下向、土着したのは、大友能直の孫である頼泰(1222−1300)以来のことというのが通説とされる。文永8(1271)年、鎌倉幕府が西国に所領を持つ御家人に対して、蒙古襲来に備えて下国警固を命じたのが契機という。(大分放送:大分歴史事典
 柳川藩以来の小野家の系譜を簡単に記すと次の通り。

小野鎮幸−茂高−正俊−真俊
−隆幸(慧日寺開山を支援)
−春信(平野山開坑)
−隆局−隆儀−賢良
−寛隆(石炭山拡張)
−隆基(長州征伐出兵、炭山官営化再考を嘆願) (大牟田市史補巻, p.111, pp.273-279)

6) 立花宗茂
 永禄10(1567)年11月18日、豊後高田の筧城に生まれる。宗茂の実父は高橋紹運(1548〜1586)である。天正9(1581)年に子供のいない立花道雪(1513〜1585)の養子となったことで、立花姓を名乗る。勇猛果敢な武将であり、秀吉から「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と称された。
 本来豊後大友氏の家臣であったが、羽柴秀吉の九州征伐後に独立して、筑後13万2千石を与えられ、柳河城主となる。小田原征伐、朝鮮の役にも出陣している。
 関ヶ原合戦では西軍に参加。敗戦後は柳河で籠城するも、加藤清正の説得により開城する。その後はしばらく清正の世話になるが、慶長7(1602)年に肥後を後にすした。
 慶長9(1604)年に秀忠に召し出され、5千石相伴衆となる。慶長11(1606)年に奥州棚倉一万石を賜る。その後、関ヶ原後に筑後の領主となっていた田中氏が絶家したため、その後をうけ、元和6(1620)年に柳河11万石に返り咲く。
 立花氏は大友氏の一族で、始祖は大友貞宗の次男貞載である。建武元(1334)年に立花城(福岡県糟谷郡新宮町)を築き、立花を称したことから立花氏が始まる。以後、立花氏は立花城の城督として大友氏の博多支配の役割を果たして、西の大友とも称せられた。
 立花宗茂の養父である立花道雪も、元は立花氏ではなく戸次氏であった。道雪は永正10(1513)年に、戸次親家の子として藤北(大分県大野郡大野町)の鎧ケ岳城で生まれている。当初は戸次鑑連(べっきあきつら)と称していたが、1562年に主君の大友義鎮が剃髪して宗麟と号すと、自身も剃髪し道雪と号した。道雪は名将として名を馳せ、北部九州における大友氏の領土拡張に貢献した。
 立花家七代目の当主である立花鑑載(1522?-1568)が、永禄11(1568)年に毛利などの支援を受けて大友氏に対して謀反を起すと、叛乱の鎮圧に活躍する。元亀2(1571)年に城督として立花城に入り、後に立花姓を名乗る。なお、道雪の本家である戸次家は猶子が継いでいる。
7) 小野和泉守鎮幸
 天文15(1546)年3月15日に豊後国に生まれる。
 元亀元(1570)年に大友氏よりその配下である戸次道雪(後の立花道雪)の戦目付として派遣されるが、道雪の腹心である由布雪下に見込まれ、戸次家の家臣となる。
 その後は戸次道雪、立花宗茂の2代に仕えて戦場で活躍し、「戦場に於て疵を享くること67ケ所大友立花2家より感状を受くること68通」であったという。
 天正15(1587)8月に柳河城主となった立花宗茂より蒲池城番家老に任命され采地五千石を賜っている。
 関ヶ原の合戦で西軍についた立花家が改易になると、加藤家預かりとなった立花宗茂に従い、肥後の国へ。慶長14(1609)年5月23日 肥後で没。墓は熊本市本妙寺東光院(Yahoo地図)にあるという。
(旧柳河藩志, pp.863-864)
web上で紹介されているものは、http://ww2.tiki.ne.jp/~shirabe01/bu/retsuden/tachibana/ono001.htm など
 なお、 小野家文書によると日本槍柱七本とは次のとおり(福岡県史近世資料編柳川藩初期(上), p.40)。
  • 武蔵大納言殿(徳川家康)内 本田平八郎(忠勝)  
  • 越後宰相殿(上杉景勝)内 直江山城守(兼続)  
  • 嶋津陸奥守殿(島津貴久)内 嶋津中務少輔(家久)  
  • 黒田甲斐守殿(黒田如水)内 後藤又兵衛(基次)  
  • 加藤主計頭殿(加藤清正)内 飯田角兵衛(高伯)  
  • 立花左近将監殿(立花宗茂)内 小野和泉守(鎮幸)  
  • 毛利宰相殿(毛利秀元)内 吉川蔵人大輔(広家)
8) 立花勝兵衛虎良の次男
 『小野和泉と後裔』には「春信は通稱若狭で、實は立花勝兵衛虎良の二男である」と書かれている。(内野喜代治編: 小野和泉と後裔, 1940, p.113)
 立花勝兵衛虎良とは、柳河立花壱岐家の4代目にあたる。初代は大友氏の一族であった別次親良、立花と名乗るようになったのは延宝5(1677)年からであるという。江戸末期に柳河藩の家老として活躍した、立花壱岐親雄の祖先にあたる。(渡邊村男:旧柳川藩史,1980, pp.955-956)
 「感應院文書」によると「耕作の冥加を得ることを願」って「黒崎開に弁財天を祭り」ったという(『福岡縣史資料』第一輯, 1932, p.228)。『立花系譜』によると、没年は寶永4(1707)年だという(前掲書, p.292)。
 春信の実父である立花勝兵衛虎良の墓は、立花壱岐家の菩提寺であった大牟田市倉永崇勝寺(マピオン)にあるという(大牟田の宝もの100選, 2002, p.135)(シニアネット久留米: 立花壱岐ゆかりの歴史散歩)。
 ただし、現在は廃寺となっており、現地に行くと本堂は朽ち果て、墓地には雑草が生茂り、立花虎良の墓碑も確認できなかった。
 「大牟田市史」によると、崇勝寺は享保11(1726)年に鉄文によって創建されたとされる。また元々は、曹洞宗で今の法雲寺の処にあったが、後に移転し黄檗派となったという。(大牟田市史補巻,1969, p.107)一方「柳川年表」によると創建は貞享4(1687)年だという(福岡県史資料第二輯,1933, p.286)。
 どちらが正しいのかは不明。どちらも正しいとすると、1687年に移転し、1726年に黄檗宗となったのであろうか。
 崇勝寺創建の鉄文禅師(1634-1688)は、山門郡海津村出身。10歳から僧として修行し、承応3(1654)年に明の隱元が長崎興福寺に来朝すると師事。寛文9(1669)年に柳川藩三代英山公(立花鑑虎)の依頼に応じて、梅岳山福巖寺を開基。元禄元年に首山法雲寺に入り、同年没。行年55。(大牟田市史上巻, pp.619-620)
9) 宝永元(1704)年7月4日に家老職を兼ねた
「三池・大牟田の歴史」には、春信の家老職就任を宝永6(1704)年と書かれている(p.137)が、宝永6年は1704年ではなく1709年。和暦の年を誤っていると思われる。
 なお「旧柳河藩志」(p.945)には元禄17年とあるが、この年は3月13日に元禄から宝永へと改元されている。家老職就任は7月だから宝永元年が正しい。
10) 宝暦4(1754)年10月5日
 「旧柳河藩志」によると、春信の死没の日は10月3日とある。(p.945)
11) 慧日寺(えにちじ)
 慧日寺は黄檗宗の寺院で、宝永2(1705)年に開山。柳河の梅岳山福厳寺(福岡県柳川市大字奥州町32-1)第四代住職霊峰和尚が退隠の地として、柳河藩主立花鑑任より、荒廃していた浄土宗永昌寺の土地を与えられた。
 小野春信の父である小野隆幸は、霊峰和尚の高徳を慕い、創建にあたってはかなりの支援をしたとされている。小野家は慧日寺の檀家となり、歴代の墓が残されている。
 しかしまだ平野山とかかわりのない小野隆幸が、どうして現在の大牟田市内にある慧日寺の創建を支援したのか、その理由は未詳。
 棟札によると本堂は宝永5(1708)年に完成したのち、延享2(1745)年に再建され、天保13(1842)年に慧巌和尚によって更に再建されたらしい。「大牟田の宝物100選」では再建ではなく、改築、大修築としている。
 本堂には、京都宇治の黄檗宗総本山万福寺にある中国建築文化がそのまま取り入れられている。特に本格的な土間式仏殿は、南筑後地方にはここだけに現存することからも、極めて貴重な遺構であるという。
 「大牟田市の文化財」によると中国建築文化の様式としては「例えば、細い縦桟をもつ正側両面[ママ]の桟唐戸、正面の半扉、柱脚下に据える石製礎盤、角柱の使用や無彩色など」が見いだされるという。(p.11)
 (大牟田市史補巻, pp.110-112、大牟田の宝物100選, pp.134-135、大牟田市の文化財, pp.11-12、続三池・大牟田の歴史, pp.84-86)
 なお隆幸の前二代、正俊、真俊の墓も慧日寺に残されている。しかし、創建前に没した2代の墓がなぜここにあるのか、その経緯は不詳。正俊は寛文12(1672)年没、真俊は寛文11(1671)年没。
 ちなみに和泉こと鎮幸の墓所は熊本市本妙寺にある。鎮幸の子で正俊の父である茂高は江戸で没したために、江戸の谷中蓮久寺(東京都文京区白山5-30-6, 日蓮宗)に葬られ、遺髪が柳川の台照院(福岡県柳川市大字西魚屋町53-1)に葬られている。(「小野和泉と後裔」, p.185)
 黄檗宗は承応3(1654)年に来日した隠元隆琦が開いた禅宗の宗派。本山は黄檗宗萬福寺。1650年代から17世紀初頭にかけては、黄檗僧が次々と来日し、黄檗宗がブームの時代であり、幕府高官や大大名がパトロンとなっている(上垣外憲一:「鎖国」の比較文明論, 講談社選書メチエ, p.195, 1994.)。黄檗宗の与えた宗教的な影響については、http://www.kani.or.jp/hojyuin/obaku.htmlが分かりやすい。
12) 炭役所としていたという
 餐霞亭について大牟田市史は次のように記載している。なぜここまで、見てきたような事が記されているのかは不明。記述を裏付ける文書があると思われるが未詳。

 天然林を取り込んだ炭役所の白壁は浮城を思わせる。水面にはいつも模糊とした霞がかかる。春信は此の地に掘出された歴木の埋れ木に、「餐霞亭」と自ら彫刻して玄関に掲げた。(大牟田市史上巻, 1965, p.724)
 「小野和泉と後裔」や「耶馬臺国探見記」によると、明治維新後に小野家は本来は別邸であった餐霞亭に移住しているという。

 小野氏邸宅は、もと炭山事務所で、餐霞亭と稱してゐたが、維新后移住増築せられた。
(小野和泉と後裔, 1940, p.118)


 降て百九十三年前即ち享保六年、柳河藩の家老小野春信、其采地平野山に開坑し、其事務所を同所に置き販賣の法を設く、是開坑採掘の濫觴也。後又、同事務所を小野氏の別荘となし之を餐霞亭と稱せしが維新後、本居住所となせり。
(耶馬臺国探見記, 1915, p.46)

 ところで、この2書はどちらも「餐霞亭」と記している。本木栄著の「大牟田市史」も「耶馬臺国探見記」を引いて、「餐霞亭」を採用している。なお同書によると昭和初期の時点で「御役所」という呼び名も残っていたらしく、次のように書いている。

 今でも地方の人達は「御役所」と稱し又附近には新役所跡もある。(本木栄:大牟田市史,1939, p.311)
 一方「旧柳川藩志」ではこの小野邸を「餐霞軒」と称し、次のように記している。

 春行仝所景勝の地を卜し別業を営む。南西山を眺め眼下に周廻凡そ20町余の湛水あり、是を平野堤と称す。其深き所4間以上ありて、水色深青にして生物の之に産するなし。此別業を餐霞軒と号す。傍ら之を石炭採掘の事務所となす。(旧柳川藩志, p.946)
※1町=60間≒108m 20町≒2km

 ともかく名称を含めて小野家による石炭経営については、「小野家文書」にあたらない事には明確にならない。しかしまとまって活字化されているのは「福岡県史近世資料編柳川藩初期」(上/下)所収の分のみであり、これには18代鎮幸から21代正俊までしか採録されていない。加えて、春信以降の石炭に関する文書は「柳河伝習館の郷土室」収蔵のものを除くと、残念ながら多くが散逸したらしい(大牟田市史上巻, p.729)
13) 6坑とされている
 「旧柳川藩史」には次のように記されている。

 平野山は多くは、小野氏の拝領地たり。此の渓谷数条あり、曰 大谷、曰 本谷、曰 梅谷、曰 爐谷、曰 満谷、曰 西谷、是也。(渡辺村男:旧柳川藩志(復刻版),1957, p.946)
 また明治になり鉱山が官営化される過程で、小野隆基の差し出した「願書」が2通、小野家文書に残されている。このうち「明治六年癸酉六月廿四日」付けの「願書」に付属した文書に「平野山開鑿並路作等入費見込調」がある。この中に梅谷坑、爐谷坑、本谷坑、満谷坑、大谷坑、西谷坑があったことが記されている。
 さらにコークスをつくる登治焼立場が、梅谷坑に40ケ所、本谷坑に7ケ所あったという。(大牟田市史上巻p.726)
14) 地勢が想像される
 大牟田市史上巻, 1965, p.721
15) 三池鉱山煤田図
 「福岡県史 三池鉱山年報」(1982)所収。出典は「三池鉱業所沿革史」(第1巻,前史2)と記されている。
 なお原図を複写したものは石炭産業科学館(大牟田市)(webマピオン)でも見ることができる。
16) 周辺を買収
 「大牟田市史」には次のように書かれている。

 春信の意志を継いだ子孫の平野山に注ぐ情熱は、天保六年鷹取山の周辺を買収して更に鉱区を拡張した。
(大牟田市史上巻, 1965, p.721)

 ただし「大牟田市史」には、このことを裏付ける資料などは示していない。
 また「小野和泉と後裔」にも「二十七代寛隆に至り、天保六年乙未爾餘の平野山を買ひ」(内野喜代治編: 小野和泉と後裔, 1940, p.117)とある。
 ここで疑問なのは、春信の拝領とも関わるが、誰から何を買い取ったのかということである。知行地を立花家から買い取るということは考えられない。しかも江戸時代の山林は付近の住民が薪や柴を採るために共有地であっただろうから、個人が所有していたとも考えにくい。すると順当に考えれば、採掘の権利ということになりそうであるが、それでは誰から買い取ったのか良く分からない。
17) その一部に過ぎなかった
 春信が拝領した山林の範囲は不明だが、最初に採炭を開始したのは本谷坑ではなかっただろうか。
 まず小野文書によると鷹取山を賜ったとされる。

平野山は慧月院殿在役勤精付、藩事功労為嘗拝領之模様に候。右は鷹取山也。(大牟田市史上巻,1965, pp.720-721)
 現在の高取山の山頂に近い坑口は、梅谷坑と本谷坑の2つである。
 次にもし西谷坑のように、平野山西部から採掘を開始していれば、小野家の別邸を平野堤に置くのは不自然である。水辺に置くのであれば、海へ搬出する途中に位置する三田堤のほとりに置いたであろう。
 「三池鉱山煤田図」(図3-2)に石炭の搬出路が掲載されている。恐らく最初の搬出路は直線に近いものであっただろうし、後から開いた坑口からの搬出路はそれに合流するように作られたであろう。このことを前提に図3-1を見ると、本谷坑からの搬出路が最も古いものと推測できる。
 以上のことから、本谷坑が最も古いのではないかと推測するのであるが、採炭場所を示す小野家文書の発見と、坑口の考古学調査による裏付けがない以上、単なる仮説に過ぎない。
18) 利用したとされる
 市史上巻, p.754
19) 石炭の産地であった遠賀郡
 遠賀郡は、おおよそ現在の岡垣町、芦屋町、遠賀町、水巻町、中間市、北九州市八幡西区、同八幡東区、若松区、戸畑区にあたる。
 元禄16(1703)年にまとめられた『筑前國續風土記』には「遠賀、鞍手殊に多し」とある。(貝原益軒『筑前国続風土記』巻之二十九 土産考上 土石類【燃石】)
 特に長崎街道に面した、黒崎・小屋瀬での石炭採掘の様子は、元禄4(1691)年と元禄5(1692)年のオランダ商館長の江戸参府に随行したケンペルが、『日本誌』の中で紹介している。

(小屋瀬から黒崎への)途中数カ所炭坑があり、同行の人々はわれわれに、非常に珍しいものだと説明した。
(ケンペル『日本誌』第五巻 第七章 長崎から小倉までの陸路の旅 2月17日,
今井正訳, 霞ヶ関出版, 1973, 下巻 p.219)
上津役(こうじゃく Koosjakf)村があり、次いでまた1つの道標があり、その半里先に石炭を掘る小さい村があった
(同, 第五巻 第十三章 江戸から長崎までの帰り旅 5月2日, p.350)


20) 記録が残っている
 福岡県史によると、下の願いが福岡藩に出されたという。

 享保五(一七二〇)年七月十三日遠賀郡の焼石が払底して、近辺浦村の漁船が篝火など焚くのに難儀した。それで芦屋沖の平太船持主から、豊前赤池と鞍手郡赤地両所で焼石を買い求め、次の浦々へ売渡したいと願い出た。
 波津浦 鐘崎 勝浦(塩浜共) 津屋崎 福間 新宮 奈多(塩浜共)
(『福岡県史』第二巻下冊, 1963, p.234)

 ここに上げられた七ケ所では、漁船の篝火用に石炭を用い、特に勝浦と奈多は塩田用にも石炭を用いるということである。
 波津浦は今の遠賀郡岡垣町、鐘崎は今の宗像市、勝浦と津屋崎は今の宗像郡津屋崎町、福間は今の宗像郡福間町、新宮は今の粕屋郡新宮町、奈多は今の福岡市東区にそれぞれ位置する。
21) 買元を許した
『福岡県史』には次のように書かれている。
「元文元年(一七三六)六月に、鞍手郡小竹村の次郎吉という者を、他国出炭改め、すなわち焼石目付に命じ、また福岡へ焼石を送る買元を許した。嘉麻・穂波・鞍手・遠賀四郡の石炭及び石がら(骸炭)を、みだりに他国へ出されては郡内の石炭・石がらが欠乏するので、以前から停止してあったのをこの際次郎吉に命じて、他国へ出す石炭を取り押さえしめたのである」
(『福岡県史』第二巻下冊, 1963, pp.234-235)
22) 翌年には辞任している
 元文2(1737)年11月17日付けで、辞表の許可書が出ている。
「鞍手郡勝野村次郎吉、石炭支配被仰付置候処、今程石掘申人柄少く候に付、福岡廻も不得仕候間、右支配御免願出候。願之通御免被仰付候」
(『福岡県史』第二巻下冊, 1963, p.235)
 採掘従事者が不足し福岡への送炭量を確保できなかったらしい。
23) 自由に売買されていた
「同軍(=鞍手郡)の石がらは、内々芦屋・若松洲口へ余分に積出され、下関や小倉では筑前国の石がらは自由に売買されていると言う」
(『福岡県史』第二巻下冊, 1963, p.236)
 元になった文書が、県史には書かれていない。
24) 推奨していなかった
 農作業に支障が出るから、周辺の産炭地から福岡や博多に石炭を売りに来る者を制限するという、次のような触書きが元文2(1737)年に出されている。
「粕屋・那珂・席田より、石炭持出シ売候百姓多ク、田作障ニ相成候ニ付、右三郡共ニ五拾歳以上之者計提札持、石炭売らせ可申候」
(『博多津要録』元文二年三月廿一日)
25) 申渡しがあった
『米府年表』享保12(1727)年10月3日の記事に「士中石炭焚間敷旨被申渡」とある。
(久留米藩史年表『福岡縣史資料』第一輯,1932,p.225)
26) 自家用として使われただけ
「唐津炭田の発見は享保年間に東松浦郡北波多村岸山字ドウメキで農夫が偶然に発見したものだといわれている。筑豊炭田が飛躍的に発展した貞享、元禄につぐ時代である。もちろん、はじめに農家の自家用の域をでず藩もこれを注目しなかった」(『唐津市史』, 1962, p.716)
「唐津炭田は、享保の頃、東松浦郡北波多村岸山字ドウメキで農夫が發見したといふ」(淺井淳『日本石炭讀本』, 古今書院,1941, p.242)
27) 用いられ始めた
大牟田市史には、「享保ごろになると、火薬製造業者や、瓦屋、製塩業者が使い始め」とある。(『大牟田市史』上巻, pp.693-694)
 また「次第に醸造・鍛冶・窯業・瓦焼・白灰焼などの家内工業用の燃料としての需要がはじまり、商品生産としての石炭産業の発展が約束されることになりました。」(大牟田の歴史,p.126)
 ただし、このうち醸造、窯業での石炭の利用を示す資料は見出せなかった。
28) 方法がとられてきた
 海水を汲上げて、砂浜に撒き、塩分の付いた砂(鹹砂)を集め、海水で漉して濃い塩水(鹹水)をつくる。これを煮詰めて塩を作る、というのが中世以来の塩の作り方であった。
 古代の製塩方法として「藻塩焼く」という言葉がよく知られている。この海藻を使った製塩方法には諸説あるが、最も支持されている説は、乾燥した海藻を積み重ねて、上から海水を注ぎ鹹水をえて、これを煮詰めるというものである。(廣山尭道『塩の日本史』第二版, 雄山閣出版, 1997, pp.13-15)
 『常陸国風土記』行方郡条には、「郡の西に津済あり。謂はゆる行方の海なり。海松及塩を焼く藻生ふ。(略)板来の村あり。(略)其の海に、塩を焼く藻・海松・白貝・辛螺・蛤、多に生へり」とある。
 『萬葉集』には次の長歌が収められている。「名寸隅の 舟瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ 海人娘女 ありとは聞けど 見に行かむ よしのなければ ますらをの 心はなしに 手弱女の 思ひたわみて たもとほり 我れはぞ恋ふる 舟楫をなみ」(第六巻0935)
 他に、塩焼くなど書かれたものが11首ある。(01/0005、03/0278、03/0354、03/0366、03/0413、06/0938、06/0947、07/1246、11/2622、11/2742、12/2971)
 ところで製塩の為に、海水から鹹水を得て、それを煮詰めるという方法が採られたのは、日本には岩塩がなく、天日塩を得るには多湿な気候だからだという(たばこと塩の博物館「「日本の塩づくり」」)。
 ただし、東北地方では海水を直接煮詰める方法が多く、特に三陸海岸では近世までその方法が残っていた。また沖縄では岩の凹部に溜った天日結晶塩を採集する人もあったという。
(廣山,前掲書, pp.83-87)
29) 多くの燃料が必要とされる
「当時製塩燃料は、柴・萩・萱・躑躅・姥目などの雜木から松葉・松枝・松薪などであったが、そのうちでも松葉と松薪が最も多かった。その量は、一基の石釜で年間小束なら七万六八〇〇把(略)と産出できる。(略)四〇〜五〇年生の松林一反歩から一〇〇把の松葉・松薪がとれるとすると、一釜の消費をまかなう松林は七七町歩(略)が必要であった。またこの燃料費は塩生産コストの平均五〇%を占めたのである」
(廣山尭道『塩の日本史』第二版, 雄山閣出版, 1997, pp.123-125)
 当時、7〜8反歩の塩田で採取された鹹水を煎熬できる石釜が現われていたという(同掲書,p.121)。
 これを基準にすると、塩田の約10倍の面積の松林を確保していなければ、製塩は出来なかったことになる。
30) 『塩の日本史』によると
 所収の地図による。(廣山尭道『塩の日本史』第二版, 雄山閣出版, 1997, p.123)
31) 福岡藩領にある津屋崎
 これは現在の津屋崎町大字勝浦にあった勝浦塩田であろう。寛文8(1668)年に完成し、延宝元(1673)年には27町歩となった。その後、場所の移動はあっても、明治まで面積はあまり変化していない(『津屋崎町史』通史編, 1999, pp.507-508)。
 堤防を築き干拓地に作られているので、入浜式とも思われるが、『福岡藩郡役所記録』には「宗像郡津屋崎濱にて、揚濱取立、鹽燒立之事。同年(=元禄16(1703)年)十二月廿二日」とある(『福岡縣資料』第四輯, 1932, p.241)。
 元禄13(1700)年に勝浦で石炭を用いていたということを示す典拠は、『塩の日本史』(p.123)以外にはなかった。少なくとも享保5(1720)年以前から石炭を用いていたことは『福岡県史』の記述から分かる20)
 享保5(1720)年に遠賀郡で焼石が払底したので、豊前赤池と鞍手郡赤地両所で焼石を買い求めて、必要な浦々に売りたいとする願いが出されたのだが、そのうち製塩用に焼石が必要とされたのは、勝浦と奈多であったという。
 奈多は現在の福岡市東区奈多であるが、『筑前国続風土記』によると、塩田は元禄16(1703)年に開かれたことが分かる。「元祿十六年、福岡の權臣大野忠右衞門貞勝、 此所の廣き斥有を察し、鹽濱を三十町許初て開き、鹽竃鹽屋を立つ」(『筑前国続風土記』巻之十九 糟谷郡 奈多濱)。
 なお『大牟田市史』には、「一七〇二年(享保五年)には、石炭を波津、鐘崎、勝浦、津屋崎、福間、新宮、奈多の塩浜に船で送った」(上巻 pp.693-694)との記述があるが、これは誤りである。享保五年は1720年であり、このうち塩浜があったのも勝浦と奈多だけである。
32) 肥後の長洲
 長洲の塩田は、寛文年間(1661-1672)年に鼈頭、宝永(1704-1710)以前に西無田、享保(1716-1735)頃に長洲塩田がそれぞれ開かれたという。(森田誠一「肥後の塩業」『日本産業史大系8九州地方篇』, 1960, pp.179-180)
 なお各々の塩田の場所は同書(p.180)に図示されている。ただし、『長洲町史』はこれに疑問を呈している(『長洲町史』1987, pp.497-498)。
 なお肥後藩の塩田は、明和年間(1764-1771)に入浜式に変るまでは、揚浜式であった。(森田誠一,前掲書, p.184)
33) 入浜式の塩田
 塩田を使った製塩の方法には、大きく分けて揚浜式と入浜式がある。
 揚浜式は海水を人力で塩田面上に散布し、日光、風力によってその水分を蒸発させ、塩分を撒砂に結晶させてこの鹹砂をかきあつめ、これを操作して塩を採集する方法で、主として裏日本海岸で行われていた。(森田誠一「肥後の塩業」『日本産業史大系8九州地方篇』, 1960, p.184)
 一方、入浜塩田とは「海浜の三角洲、又は湾頭砂洲等に構築され、其の地盤は、堤防を以て処々海水の侵入を防止し、地盤面は海水満干の中位の高度を保たせ、地盤面に掘った浜溝に海水が導入される。斯くして浜溝の海水が塩田地盤に滲透し、是れが毛細管現象により、塩田面に上昇し、地盤面に散布した撒砂に付着し易いようにする。この滲出して上昇する海水が撒砂に付着し、日光と風力により水分が蒸発し、鹹水が出来るが、撒砂を天日に曝している間に海水を散布することがある。これは毛細管現象を旺んにする為めで、一名『呼び水』といわれているが、此の呼び水は、揚浜式塩田の散潮とは、全然性質を異にしている。此の鹹水を沼井台に集めて、藻垂水で洗い取って鹹水を得る」(田村栄太郎『日本工業前史』,東洋堂, 1943)
参考
『塩事業センター』のサイト(揚浜式塩田入浜式塩田
『たばこと塩の博物館』のサイト(能登の揚浜瀬戸内海の入浜
 入浜塩田がはじめてつくられたのは、寛永年間(1624-1643)の赤穂であるというのが通説であるとされるが、これを裏付ける十分な証拠は無いらしい。(渡辺則文「十州塩田」『日本産業史大系7中国四国地方篇』, 1960, pp.26-27))
34) 駆逐していった

 塩田の規模は慶長の頃(1596-1614)から徐々に大きくなり、寛永頃の姫路藩塩田では一筆が7〜8反になったという。(廣山尭道『塩の日本史』第二版, 雄山閣出版, 1997, p.104)
 その背景として、当時は新田開発の為に大規模な干拓工事が進められていたことと、城下町の成長による塩需用の増大があげられる(同掲書, p.105)。
 播磨の塩田技術は、その後瀬戸内の各地に伝播した。例えば広島藩領で最も早く開かれのは、慶安3(1650)年の竹原塩田で、赤穂から技術者を招いている。その後、面積約60町歩、72軒となっている。備後福山領の松永塩田は、万治3(1660)年から寛文2(1662)年につくられ、元禄13(1700)年には56町歩となっている。また長州藩では元禄(1699)12年に、三田尻に87町歩の塩田を開いたが、播磨人が相談にあずかっている。(渡辺則文,同掲書,pp.30-31)
 大規模な塩田づくりを各々の大名家は積極的に行っていたが、「塩が領民の生活必需品であると共に、藩財政をうるおすことが大きかったからである」(渡辺則文「十州塩田」『日本産業史大系7中国四国地方篇』, 1960, p.33)
 入浜式はそれまでの揚浜式に比べると、人力による海水の散布が無い分、効率的である。また干満の差を利用した自然入浜に比べても、海水を入排水樋で制御するから干満の時間に関係なく作業が可能となり、作業の順序や労働の分担も定型化できるようになった。これらに加えて、塩田の規模が拡大したことによって、製塩の生産手段、労働、経営の合理化がかなりすすむことになった。(廣山尭道, 前掲書, p.104)

35) 達していたという
 廣山尭道『塩の日本史』第二版, 雄山閣出版, 1997, p.110
36) 模索してたらしく
 元禄赤穂事件の刃傷沙汰は、赤穂の大名浅野内匠頭長矩が、吉良上野介義央に製塩の技法を教えなかったことが、吉良の意地悪になり、引き起こされたのだという説もある。しかし、これには史料的な裏づけは無いらしい。
 塩田や窯屋には、塩買船の船頭水夫も自由に入ることはできるし、赤穂からの技術指導も各地へ派遣されている。そもそも、吉良の自然条件からして「三河湾の危険な津波から、大規模単位の集中保有という入浜塩田の形式は困難であった」とのことである。(廣山尭道『塩の日本史』第二版, 雄山閣出版, 1997, pp.119-120)  
37) 大伴家持の歌
 「鮪[しび]突くと 海人の燭せる 漁火の ほにか出ださむ わが下思を」(萬葉集 第十九巻4218)天平勝宝2(750)年5月の歌
 鮪[しび]突き漁で 海人のとぼす 漁火のように めだつようにすべきだろうか わたしの胸のうちを(日本古典文学全集3『萬葉集』二, 小学館, 1972, p.330)
 鮪はマグロの古名。家持が越中守として赴任していたとき、初夏の富山湾に回遊してきたマグロを捕るための漁火を見ての歌。  
38) 記録されている
 宝永6(1709)年に完成した『筑前国続風土記』には次の記述がある。
「【鯖[さば]背腸醢[せわたびしほ]】春は所々にて網を引て取。又夏の末より秋に到りては、釣をたれて多く取。蘆屋、山鹿、鐘崎、津屋崎、相島、新宮、奈多、志賀島、其外所所の漁舟、入日の比より漕出、洋中に至り、數百艘の舟共皆篝火を燃し鯖をつる。其漁[いさり]火の海上に多くつらなる事、恰も晴たる夜の星のごとし。伊勢物語の歌にも、晴るゝ夜の星の澤邊のほたるかも我住里の海人のたく火の、とよみしも、げにさることにこそ侍れ。其夥しき有様、若海人のいさり火なる事をしらざる者は、甚怪しむばかり也」 (貝原篤信『筑前国続風土記』巻之二十九 土産考上 海魚類 )
 ここで上げられた地名は、20)のものとは少し相違が見られる。蘆屋と山鹿は今の遠賀郡芦屋町。20)の史料には見られなかったが、石炭積出の港があり、石炭の不足はなかったのだろう。鐘崎は今の宗像市、津屋崎は今の宗像郡津屋崎町。相島は新宮と共に今の粕屋郡新宮町だが、玄界灘に浮かぶ島。奈多と志賀島は今の福岡市東区。
 伊勢物語の歌にも云々とあり、歌が引かれている。これは八十七段、布引の滝を見た帰りに漁火を見て詠んだとされる歌であるが、定家本とは少し異なる。定家本では「晴るゝ夜の星か河邊の螢かもわが住むかたの海人のたく火か」とある(『伊勢物語』, 大津有一校注, 岩波文庫, 1964)
 『筑前国続風土記』によると水揚げされた鯖は、そのまま煮たり、干物にする他、ヒレ、尾、を切り落して塩漬(醢)にされたという。「鰹魚のたゝきと云物にまされり」と評されているが、何故たたきが比較の対象となるのかが良く分からない。
 また内臓を別に取って塩漬けにしたという。これは背腸醢と呼ばれ、今でも酒の肴として使われる塩辛になる。なお文中では「味よし」とも評されている。
39) 釣っていたという
 寛政11(1799)年に刊行された『日本山海名産図絵』の「鯖」の項には次のように記されている。
「丹波〔後〕、但馬、紀州熊野より出す、其ほか能登を名品とす、釣捕る法何国も異なることなし、春夏秋の夜の空曇り湖水[しお]〔潮水〕立上り海上霞たるを鯖日和と称して、漁船数百艘打並ぶこと、一里許又一里許を隔て並ぶこと前のごとし、船ごとに二ツの篝を照らし萬火々[こつこつ]として天を焦す、漁子十尋許の糸を苧にて巻き、琴の緒のごとき物に五文目位の鉛の重玉を附鰯、鰕などを飼[え]とし、竿に附ることなし」
(近世歴史資料集成 第II期 第I巻 日本産業史資料(1) 総論, 浅見恵・安田健訳編, 科学書院刊, 霞ヶ関出版発売,1992, pp.201-202)
40) 伝わっていたらしい
 「(八駄網[はちだあみ]は)風呂敷状の大きな網で、夜間これを海中に張り、火船が火をたいて魚群を誘導して網の上まできて急に火を消す。すると網の四隅に待機している網船がいそいで網を引揚げて、魚をとるのである。(略)こうした八駄網は近世初期以来、上方から関東・九州などへの進出が目ざましくなっていくが、九州ではとくに南九州漁場の開拓が目ざましかったようである」(宮本常一「九州の漁業」『日本産業史大系8九州地方篇』,東京大学出版会, 1960, p.164)
 八駄網は『広辞苑』によると八田網、八手網と表記されている。
41) 石炭が用いられていたとされる
 明和3(1766)年に刊行された『石城志』に次の記述がある。
「正徳年中より、席田郡表粕屋郡の村民も此石を掘て、薪に代ふ。市中にて瓦工及ひ鹽硝屋等、此石を買求めて用といへとも、其燒殻を放下しける」(津田元顧,津田元貫『石城志』,九州公論社,1977, p.117)
 ここに書かれた「鹽硝」は硝石のことで、黒色火薬の主原料である。硝石のみ販売しても仕方がないので、火薬の製造販売を行っていたのだろう。
42) 大量の薪が必要とされた
 『かわら日本史』によると、当時使われていた直焔式平窯の熱効率は、わずか4%であったという。これは窯自身の温度を上げるための熱量が多く必要な上に、焼いた瓦を取り出すためには、窯に人が入れるまで冷まさなければならず、この焚いたり冷やしたりすることで無駄が生まれていたらしい。(駒井鋼之助『かわら日本史』,雄山閣,1974, p.226)
 また具体的な数字は上げられていないが、「労務費のあがらない前は、粘土瓦の生産原価の中で、燃料費の占める割合は最も大きかった」という。(同掲書,P.227)
43) 始まったのであろう
 製瓦に石炭を使っていたことを示す『石城志』には、「瓦工及ひ鹽硝屋等」と書かれているが、陶磁器の製造はこの「等」に含まれるだろうか。粘土を焼いてつくるという点では、瓦と変らないのだからなかったとは考えにくい。しかし江戸時代を通じて、陶磁器を焼くために石炭を用いたことを示す文献は見つけられなかった。
 近代になってヨーロッパから石炭窯が入ると、有田などの磁器の量産地では、これを導入する業者が多かったという(大西政太郎『陶芸の土と窯焼』理工学社, 1983, p.2-30)。ということは石炭で焼くこと自体はあまり問題ではなく、石炭を焼くのに適した窯がなかったことが問題ということになる。
 実際、シナでは宋代に製陶にあたって石炭が用いられていた。宮崎市定は『宋会要』食貨巻五十五、窯務の条にある、煕寧七年五月、江陵府江陵県尉の陳康民の言「在京窯務の所有[あら]ゆる柴数を勘会し、三年以内において一年最多の数を取り、増して六十万束と成し、仍て石炭と兼用せしむ」を引いて、「在京の製陶製造所では、その燃料に薪と石炭とを併用した」と説明している。(宮崎市定「宋代における石炭と鉄」『中国文明論集』,岩波文庫, 1995, p.66)
 また先の引用文の続きである「勾当東窯務孫石乞う、石炭を将って出貨し、只だ窯柴を以て供応せん、と」を引いて、「製陶にはよほど高度の技術がないと石炭は使いがたいものらしい」「特に在京窯務は宮中用の上製品を製作しなければならなかったので、石炭を避けて薪に頼ることにしたかったのであろう」と記している(同掲書, pp.66-67)から、日本では石炭を使いたくてもその技術を開発できなかったのかもしれない。
 明治になって使われた石炭窯と近世の窯との違いに、煙突の有無がある。「石炭は松薪と違って熱カロリーが高いとはいえ、温度を上昇させるためには燃焼をよくしなければならす、そのために煙突を設け」るのだという(大西政太郎,前掲書, p.2-28)。確かに、景徳鎮を焼いた無花果窯にも煙突が設けられている(同掲書, p.2-3)。
 一方、日本では長らく登窯が使われていたが、煙突をもつ窯にくらべると、燃焼効率が低かったのかもしれないが、調査不足のため不詳である。
44) 裏付けられる
 『筑前国続風土記』(巻之二十九 土産考上 器用類)には「博多に瓦町とて、瓦工の集り住る町一坊有。屋瓦及びもろ/\の瓦器を作る」とある。
 また『筑前国続風土記付録』(巻之四十六 土産考上 器用類)にも「今博多瓦町に瓦師數家あり」と書かれている。この瓦師たちは、初代福岡藩主の黒田長政とともに播磨から博多に来て住み着いたのだという。しかも当初は士分も与えられていた。
 瓦町は現在の福岡市博多区祇園町に位置し、萬行寺の西側にある細い路地がその跡である。町の北端は現在の国体道路から上川端商店街へ斜に入る道であり、南端は萬行寺敷地南端の延長線上であり、下照姫神社のやや南になる。その南には堀があった。町の西端は博多川とは別に流れる川で、現在はキャナルシティ東側の蛇行した道路になっている。(『今昔・福博絵図』,九州朝日放送・福博綜合印刷, 1996)
 今は福岡市の中心部に含まれるが、江戸時代の博多では南西端に位置する町外れだった。煙害などを考慮しての配置だったのだろう。
 現在は博多駅前通りや国体道路などの大通りが引かれ、ビルも立ち並んだために、当時の様子を想像することは難しい。分断されてしまった路地の他に、この町のもので昔から残っているのは、博多駅前通り西側にある下照姫神社くらいであろうか。なおこの神社の前には、旧町名を示す小さな碑が立っている。
45) 全国的な傾向として
「元禄年間には、日本の経済力が豊かになった。まず寺院の再建が各地で行われ、瓦の需用が起こった。やがて瓦葺の奨励時代にはいった」(駒井鋼之助『かわら日本史』,雄山閣,1974, p.41)
 徳川綱吉は社寺に対する信仰心から、主に元禄年間に、遠国では伊勢神宮、熱田神宮、石清水八幡宮、春日大社、久能山、比叡山、高野山、日光東照宮、東大寺大仏殿などを修復させ、江戸では護国寺、護持院を新たに造営し、寛永寺根本中堂を建てている。(児玉幸多『日本の歴史16元禄時代』, 中公文庫, 1974, pp.382-386)
 諸大名がこれに倣ったかどうかは分からない。試みに『大牟田市史』補巻の年表から、江戸時代における寺院の開山修復に関する記事を拾い出すと28件あった。このうち、17世紀後半の50年間に10件あり、この期間に集中的に寺院の建設が進められていたことは確認できる。ただし元禄から享保にかけての時期には殆ど建設されていない。どうやら寺院による瓦の需用と平野山の開坑とは無関係のようである。
 江戸での瓦の推奨は享保5(1720)年に浪人伊賀蜂郎次の投書を採用したことに始まる。幕府はそれまで禁止していた町家の瓦葺き、土蔵作りを許可した。「町中普請の儀、土蔵作り或は塗家並びに瓦屋根に仕り候事、只今迄は遠慮致し候ように相聞き候、向後右の類の普請仕り度しと存じ候者は、勝手たるべく候」(『御触書寛保集成』二十九)後には、瓦葺きにしなければならない地域を定めている(猿楽町、三河町、駿河台)。(奈良本辰也『日本の歴史17町人の実力』,中公文庫, 1974, pp.253-254)今で言えば防火地域の指定と言うことになるだろう。
46) 使われなくなったわけではない
 島原の乱では5万石の筑前黒田家は278挺の銃を携行しているが、幕府の定めた軍役の規定150挺をはるかに越えている。貞享4(1687)年の「諸国鉄砲改め」で、威し鉄砲や猟師鉄砲などを除いては保有できなくなったとされるが、綱吉の死後には事実上撤回され、依然として民間には大量の鉄砲が保有され続けたという。対馬では壮丁約3900人に対して、1402挺の鉄砲があったと言うし、関東では届出のあったものよりもぐりで保有されているされているもののほうがずっと多かったという。
(鈴木眞哉『鉄砲と日本人』, ちくま学芸文庫, 2000, pp.239-243)
47) 煮詰める工程がある
 硝石は塩硝とも呼ばれた。
 硝石の作り方だが、まず人家の床下などでとれる硝石土に含まれる硝酸カルシウム(Ca(NO3)2)を水に溶かし、水溶液を得る。これを木灰などに含まれる炭酸カリウム(K2CO3)と反応させ、出来た硝酸カリウム(KNO3)水溶液を煮詰め、硝石の結晶を得る。
(大矢真一「解説」『江戸科学古典叢書12硝石製錬法/硝石製造弁/硝石篇』, 恒和出版, p.1978, pp.10-12)
 なおこの工程は『硝石製造辨』所収の「硝石製造手順の圖」「硝石製造諸道具の圖」が分かりやすい。(佐藤信淵「硝石製造辨」,同掲書, pp.97-102)
 この工程での石炭の用い方は、単純に煮詰めるため熱源だろう。この場合、薪を石炭に代替させるのにはそれほど問題はなさそうである。
 なお、この硝石土に含まれる硝酸カルシウムは、次のような過程でつくられる。まず有機物が腐敗して出来るアンモニア(NH3)が土中に含まれる硝化バクテリアによって亜硝酸(HNO2)がつくらる。これが時間をかけるうちに酸化されて硝酸(HNO3)となり、さらに土中のカルシウムと反応して硝酸カルシウムとなる(同掲書,p.4)。
 硝酸カルシウムは水溶性だから、民家の床下のように水の流れない場所に残ることになる。
48) 黒色火薬
 黒色火薬は、重量比で硝石(硝酸カリウム)75%、硫黄10%、炭素15%を混合したものである。この黒色火薬が爆発するのは、加熱や加圧をきっかけに、硝酸カリウムが酸化剤となって、硫黄と木炭を急激に燃焼させ、それによって高温のガス圧が発生するからである。
 黒色火薬がいつ、誰によって発明されたのかは詳らかではない。宋代になると火薬を利用した武器が色々とつくられ、それらは1040年頃に書かれた『武経総要』(『四庫全書』に所収)に見ることができる。(宮崎市定編『世界の歴史6宋と元』,中公文庫, 1975, pp.171-172)
 19世紀の末に、爆発力が強く煙が少ない無煙火薬が実用化されると、黒色火薬は廃れ、現在は花火などに使われる程度である。
49) 伝承も伝わっている
 宝永7(1710)年「深堀藩の下僕五平太、老齢で退職。恩賞として支配権をえた高島で「燃石」を発見、領主に献上し、鍛冶燃料として深堀村民に供した。後、深掘藩士と共同で採鉱を始め近郷、四国、中国の製塩用燃料として拡大(伝説)」(炭坑誌−長崎県石炭史年表, 葦書房, 1990, p.22)
50) 悪影響を与えそう
 不純物が混入することで、鉄の性質は変化する。石炭に含まれている硫黄が鉄に混入すると、脆い性質が表れる。 そこでもしタタラで砂鉄からの製錬を行う際に石炭を用いたら、確実に粗悪なものが出来上がるはずである。
 ところが鍛冶を行う際にタタラほどには温度が上がらないので、それほど鉄は硫黄と反応しない可能性もある。そこで幾つか文献に目を通してみたが、確証は得られなかった。
 なお現在の製鉄で使われる溶鉱炉には、鉄鉱石と共に石炭も入れられている。これが問題にならないのは、石灰石も溶鉱炉に入れられ、燐や硫黄といった不純物は鉄ではなく石灰石と反応してスラグをつくるからである。スラグは別に取り出されるので、不純物のない鋼鉄が得られることになる。
51) 利用している人がいる
 次の二つの記事から、石炭が鍛冶に使えない訳ではないことが分かる。
 下は佐賀県白石町築切で農機具を専門とした鍛冶屋を営む川崎直之氏を紹介する記事の一節である。
 「鍛冶(かじ)場の一角にある炉の中に石炭をくべ、火をおこす。もうもうと煙が立ちこめ、やがて真っ赤な炎が上がる。火中に鉄塊を入れると鮮やかな赤色に変わり、周囲にも熱気が伝わってくる。
 約八百度になった鉄塊をつかみ、すぐにベルトハンマー機で打ち据える。地面を揺らさんばかりの勢いでハンマーは打ち下ろされる。」(佐賀新聞「佐賀の匠70〜農機具製作〜」) 
 続いて、川尻刃物鍛冶の林昭三氏を紹介する記事である。
「近ごろでは鉄を加熱するのに重油やガス、電気炉が使われることも多いそうだが、林さんは石炭の粉、粉炭を使っている。理由は火勢の調整がしやすく、安く手に入るから。そして大切な「焼き入れ」の工程では、必ず木炭を使う。「鋼に炭素ばおぎなうことにもなるし、やっぱり木炭の火加減が、ちょうどよか」とこだわる。これが重油やガスだと、しっかりした「焼き」が入らないのだという」
(にしてつニュース「九州に生きる 火を操る」)
 2番目の記事を見る限り、鍛冶に石炭を使うことによる問題は、火の強さの調整など、作業を行う上での慣れの問題だけなのかもしれない
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