赤旗ーみいけの年表(朝日新聞参照)

1911(明治44)年
 父・楠元辰雄、鹿児島県出水郡野田村下名にて出生。

1918(大正7)年
 母・猪熊貞枝、香川県綾歌郡林田村にて出生。

1920(大正9)年
 父方の叔父・片野坂豊、台湾嘉義廳布山にて出生。

1921(大正10)年
 父方の叔父・片野坂實、台湾台南州虎尾郡にて出生。

1923(大正12)年
 父方の叔父・片野坂正、台湾台南州嘉義郡嘉義街にて出生。

1925(大正14)年
 父方の叔母・片野坂定子、台湾台南州嘉義郡嘉義街にて出生。

1928(昭和3)年
 父方の叔父・片野坂亨、台湾台南州嘉義郡嘉義街にて出生。

1936(昭和11)年
 母ら猪熊一家(10名)、台湾台中州北斗郡(現・彰化縣)に農業者として移住。

1937(昭和12)年4月
 父・楠元辰雄、台湾斗六郡荊桐庄大埔尾 農業國民学校嘉南塾入校。

1938(昭和13)年6月
 父・楠元辰雄、台湾台南州虎尾郡虎尾街埒内榮村、寄留。

1938(昭和13)年11月
 父の母・楠元マツカメ、台湾台南州虎尾郡虎尾街埒内榮村、寄留。

1938(昭和13)年11月
 母・猪熊貞枝、台湾台南州虎尾郡虎尾街埒内榮村、寄留。

1940(昭和15)年1月22日
 父母、結婚届出。

1940(昭和15)年4月
 長兄・楠元政則、台湾台南州虎尾郡虎尾街埒内警第一号にて出生。

1940(昭和15)年1月5日
 父の弟・楠元貞雄(母・松子)、台湾台南州虎尾郡虎尾街埒内榮村、寄留。

1940(昭和15)年5月
 父の弟・楠元貞雄、台湾斗六郡斗六街字大崙へ寄留。

1941(昭和16)年2月
 母・楠元貞枝、台湾台南州虎尾郡虎尾街埒内榮村、寄留。

1941(昭和16)年4月
 父の弟・楠元貞雄、台湾高雄市堀江町一丁目、寄留。

1941(昭和16)年12月
 父の母・楠元マツカメ、台湾台中州台中市宝町2丁目 北サト方へ寄留。

1942(昭和17)年10月
 父の弟の長女・楠元和美、台湾台南州台南市永楽町にて出生。

1943(昭和18)年7月
 母の弟・猪熊常治郎、台湾台中州台中市旭町にて病死。

1944(昭和19)年
 姉・楠元信子、台湾台南州虎尾郡虎尾街埒内警第一号にて出生。

1944年(昭和19)年4月
 父の父・楠元林助、鹿児島県出水郡出水町武本にて死亡。享年61歳。

1944(昭和19)年7月
 父の母・楠元マツカメ、台湾台南州虎尾郡虎尾街虎尾 竹内勝方へ寄留。

1945(昭和20)年8月15日
 日本國敗戦

1945年10月27日
 日本敗戦時には石炭労務者の80%を朝鮮人及び華人労務者が占めていたが、敗戦と同時に治安悪化が内地労務者をも動揺させて、石炭生産に深刻な影響を与えている。よって、華人・朝鮮人労務者の引き揚げを促進し、同時に日本人労務者13万人の確保に努める。

1945年11月17日
 華人2700名、朝鮮人82650名を送還済み。

1945年11月18日
 餓死者、名古屋72名、大阪駅付近42名、京都300名、神戸148名。

1945年11月21日
 各製鉄所から石炭応援の「鉄鋼団」を派遣。

1945年11月25日
 東京ガスと大阪ガスから炭鉱へ短期派遣。

1945年11月29日
 石炭は生活の生命線である。國を揚げて石炭を掘らねばならない。

1945年12月6日
 東京・上野駅構内で廃人同様に生活をしていた浮浪者61名、九州の炭鉱へ。

1946(昭和21)年2月3日
 GHQの指示に基づき、会社側から組合結成を促し、三池炭鉱労働組合が誕生、「國に復興は石炭から」をスローガンに増産運動が展開された。

1946年3月7日
 女および16歳未満少年の鉱山就業禁止。

1946(昭和21)年3月17日
 猪熊一家7名、台湾・基隆から復員輸送艦羽節丸に乗船、鹿児島に上陸。
 なお、楠元一家の引揚者資料なし。兄の記憶では「福岡に上陸し、寸断された鉄路の貨物列車を何度も乗り換え、鹿児島までやっとたどり着いた」という。

1946年4月21日
 炭鉱争議86件。理由は、食糧不足と労働環境改善のため。

1946年10月3日
 アメリカより食糧400英トン、三池港へ入荷。

1948(昭和23)年9月
 共産党による三川鉱寮生ストが波及し、翌24年、「集団入坑遅延事件」が発生。三池労組はこれを分派行動として除名処分、会社側も扇動者を解雇した。これらが後の「職場闘争」の原型だとも言われている。

1949(昭和24)年4月6日
 父の母・楠元マツカメ、鹿児島にて病死。享年59歳。この頃楠元一家は「住む家と食べる米」を求めて三池炭鉱へ移り住んだ頃のこと。台湾から故郷へ帰った祖母は「もうどこへも行きたくない」と言って炭鉱へはついて行かず、一人亡くなっていた。

1949(昭和24)年5月21日
 石炭争議、1ヶ月半ぶりに妥結。

1949(昭和24)年7月
 次兄、熊本県荒尾市の三池炭鉱緑ヶ丘社宅若葉町にて出生。

1949年7月17日
 茨城県高萩炭鉱会社の共産党員(41歳)ら10名を軟禁暴行の容疑で逮捕状を執行。武装警官400名が出動した。

1950(昭和25)年1月23日
 22日朝、高砂丸引揚者2500名が舞鶴上陸を始めた。船の一角から突如「異国の丘」が流れ始め、やがて歌声は嵐のように船全体を包んで行った。そして、涙で迎える家族や関係者からは「君が代」の合唱が。まだソ連には7000名位が残留し、引揚げ船を待っている。

1950年6月26日
 北鮮、韓国に宣戦布告。

1950年10月14日
 赤追放。三池においては197名が解雇された。

1950年11月15日
 三井鉱山は希望退職者を募り、老齢・病弱者・低能率者へ自発退職を勧告し、4612人が希望退職に応じた。

1950年12月15日
 14日未明、熊本県荒尾市の工場街で騒乱計画が発覚。三井関係工場への不法侵入・業務妨害容疑で5名を逮捕した。また、早朝に三井万田鉱に竹槍を持った約20名が侵入、逃げ遅れた24歳の共産党員1人を逮捕した。「中央の指令でやった」と自供。

1951(昭和26)年2月13日
 左翼系新聞「平和のこえ」関係者561名を検挙。日本刀・なぎなた・銃剣・ダイナマイト・ピストル弾等を押収した。

1951年10月24日
 社会党分裂。

1952(昭和27)年1月31日
 「白骨の島」硫黄島。洞窟の奥、砂地の底等に想像を絶する数の遺骨が埋もれていた。また、人体のままの白骨が波打ち際の草むらにあった。

1952年2月7日
 沖縄山野に遺骨4万。中学生15人と人夫5人を雇って三和村の遺骨拾いをしたが、1日だけでトラック3台の遺骨が集まった。

1952年5月1日
 日本独立後初のメーデー。一部暴徒化。都学連・朝鮮人・日雇い労務者らの極左分子が皇居前広場に乱入。

1952(昭和27)年
 私、熊本県荒尾市の三池炭鉱緑ヶ丘社宅若葉町にて出生。

1953(昭和28)年1月30日
 テレビ、いよいよ明後日から。

1953年3月6日
 スターリン首相死去。

1953年6月18日
 東ベルリンで反政府デモ激化。ソ連戦車が発砲、2人の死者が出た。

1953年6月24日
 九州筑豊地区で中小炭鉱約60が廃鉱になる。失業者2万人以上。

1953年8月30日
 三井鉱山、きょうから指名解雇。三池はあすスト突入。

1953年11月12日
 三井鉱山、解雇通知を撤回。113日振りに妥結。これが「英雄なき113日の闘い」と言われた。

1953年12月25日
 奄美大島、日本に返還。8年間におよぶアメリカ統治に終止符が打たれた。

1954(昭和29)年2月14日
 三池炭鉱三川鉱で送電スイッチが切断される。「これは争議行為を逸脱している」と会社側

1954年2月16日
 東北各地で「売られる子」が増える。

1954年3月16日
 マグロ漁船、ビキニで原爆浴びる。

1954年3月22日
 日本兵の死体2000。アメリカ海兵隊、硫黄島で発見。名前も判らず、白骨同様。

1954年6月15日
 炭鉱不況、さらに深刻。九州の炭鉱における食生活や配給所風景は終戦当時のような状況で、社会問題化している。学童の半分は弁当を持ってゆけず、長期欠食者も多い。

1954(昭和29)年8月
 炭婦協(たんぷきょう)緑ヶ丘連絡協議会発足。母、若葉地域分会副分会長となる。

1954年11月18日
 「先生、私の行く先、聞かないでください」。15歳の少女が教師に送った別れの手紙の一節。九州筑豊炭田での話である。特飲街へ出て行く母親。身を売った妻。一枚のふとんに1家族6人が重なり合って寝ている始末。

1955(昭和30)3月29日
 興安丸の815名、今朝舞鶴に帰国。しかし、桟橋には「わが夫、わが子がきょうも帰ってこなかった」と岸壁の母、岸壁の妻の姿が。

1955年6月16日
 三井田川鉱、坑内ガスによりより死者4、負傷14。

1955年7月7日
 日本共産党、戦術を転換。軍事組織は解体。合法活動に進出。しかし、治安当局は、「これらは当面の戦術転換であって、武装革命方式の変更ではない」として引続き警戒している。

1955年10月8日
 三井鉱山で合理化案。これに対し炭労は「首切り法だ」とし統一闘争方針。

1955年10月13日
 統一社会党、きょう発足。左右分裂以来4年振り。

1955年11月15日
 「自由民主党」発足。戦後最大の保守党。革新と対立時代へ。

1956(昭和31)年2月10日
 三井鉱山栗木社長は「労組との協定で完全雇用という言葉を使ったのはまずかった。炭労の賃上げ要求は今の経営状況からいって全く無理。政府にもこのことを考えてもらいたい」と語った。

1956年3月15日
 三池、「街ぐるみ闘争」へ。革新商店連盟(加盟2000店)の店では「労働者と共に歩こう」と店員さんまでもが春闘の腕章をつけている。この日は月1回の給料日。給料袋を開く主婦は「米屋のカケは半分だけ払って、この金には手をつけない」と話した。社宅入り口にはいつものように質流れ品の処分市や露店が並んだが、立ち寄る人もいない。

1956年3月16日
 三池炭鉱、今朝から事業場閉鎖。しかし組合ははじめの方針通り座り込みなどもせず、警戒していた警官は引き揚げて行った。

1956年4月1日
 炭労争議、妥結。一時金1200円増額。三池はスト続行。三井三池の賃金カットに対し闘争激化。

1956年4月16日
 三井三池の争議が43日で終わった。街は一斉に明るさを取り戻し、「石炭が出る大牟田が本当の大牟田ですたい」と通行人もうれしそう。

1956年5月15日
 朝日新聞による親探し記事で11年振りに父親がわかった。鹿児島から青森県弘前市の父親に引き取られる15歳と14歳の兄弟。一家は満州に住んでいた。昭和20年7月、父親は現地応召。よって母親は子供二人を連れて昭和21年9月に鹿児島に引き揚げたが同港で病死。兄弟はそのまま鹿児島市の仁風寮へ収容された。一方父親は昭和23年12月ソ連から引き揚げてきたが妻子の消息が判らなかった。そんな中での親子の再会。母の遺骨を抱いた子供二人との涙の再会に、駅の乗客ももらい泣きしていた。

1956年7月2日
 中共から引揚者を乗せた興安丸。「島が見えるぞ」の声に引揚者は飛び起きデッキに駆け上がる。二十数年振りに見る故国の山々に、無言でジッと魅入る帰国者たち。迎えた海上保安庁巡視船がマイクで「お帰りなさい。長い間ご苦労様でした」と呼びかけると拍手が沸き「わーっ」と歓声が上がった。

1956年8月8日
 上向いてきた炭鉱景気。増産体制。夏のボーナスも要求通り支払われ組合を驚かせた。商店街も賑わう。しかし、筑豊炭田にはまだ1万人近い失業者が残っている。

1956年11月9日
 ハンガリー国内からの反ソ連軍放送が「これが最後になるだろう」という放送の後消えた。

1956年12月13日
 日本の国連加盟決まる。

1956年12月26日
 ソ連から1025人を乗せた興安丸、今朝舞鶴に入港。遺骨24体も帰る。喜びの声と悲しみの涙があった。樺太にはまだ800人。
 北海道、冷害により大凶作。借金苦から自殺する農家・漁民、学校へ弁当を持っていけない児童、人身売買などが増えている。

1956年12月30日
 今年の石炭は3年振りに好況だった。暮れのボーナスは大手で平均1万4千円。まず買いたい物は3人の男の子のシャツ、正月用の白菜。そしてパーマをかけること。ささやかな正月の支度だ。

1957(昭和32)年1月20日
 社会党左派、主導権を握り、大衆活動に重点を置く。

1957年3月7日
 街に響く炭労スト。営業時間を縮める風呂屋。暖房が冷える病院。生産を停止した町工場。ストは影響大。

1957年6月19日
 多発する炭鉱災害や貧困。それら精神的不安から「創価学会」へ移る北海道炭労の組合員が増えている。

1957年7月26日
 西九州豪雨。長崎・熊本・佐賀に大被害。死者・不明563人。巡視船・米軍出動。

1957年7月30日
 引揚者219人を乗せた興安丸、故国へ急ぐ。樺太にまだ千人も。

1958(昭和33)年1月24日
 三井三池炭鉱を合理化。同社労組に説明する。

1958年6月6日
 石炭消費大幅に減る。中小炭鉱では早くも22炭鉱が閉山、2309人の労務者が整理された。

1958年6月25日
 阿蘇山が大爆発。死者12、負傷28。

1958年9月30日
 「炭労が社会党の支持団体となる」という炭労執行部提案に対し、反対意見が多く出され、「単に支持する」に修正された。

1958年10月25日
 総崩れの中小炭鉱に比べて、大手炭鉱はまだ余裕。鉱員住宅にはこの夏、どこもかしこも扇風機を買い込んだと言われ、テレビのアンテナが立ち並ぶ豪勢さ。

1958年11月11日
 三井鉱山、19億の赤字。三井三池の合理化実施へ。

1958(昭和33)年
 三池労組批判派グループが「労働者同志会」結成。

1959(昭和34)年1月17日
 三井鉱山合理化案、労組に提示。人員整理は避ける。その内容は次のとおり。

 「採炭夫の坑内無駄待ちを無くす」「縁故者の入れ替え採用中止」「組合員の会社預金の利下げ」等。

1959年4月4日
 炭労スト、事実上解決。三井鉱山、合理化で歩み寄り。焦点となっていた6000人の勇退問題について、会社側は強制・勧告は行なわず自由意志とした。

1959年4月16日
 ラマ僧800人が中国の収容所へ。中国共産党軍はチベットの各寺院を支配した。

1959年7月25日
 三井鉱山退職希望者、職員563人、鉱員1019人。

1959年8月10日
 石炭不況による炭鉱失業者を救おうと、助け合い運動が筑豊炭田を中心に起ころうとしている。きっかけは福岡市紅葉町の徳永喜久子さんら主婦10人の集まりから。赤い羽根運動にちなんで「黒い羽根」運動と命名。募金は1人5円~10円ぐらいとした。

1959年9月5日
 福岡県筑豊地方の炭鉱地帯からヤマの失業者31人が東京へ集団就職をすることになった。仕事先は東京都品川区北品川のソニー本社建築工事。

1959年9月14日
 福岡県飯塚市の職業安定所には高利貸しの出店がある。週に1回の失業保険金では追いつかず、生活費を借りるのだ。米屋も帳面を持って集金に来ている。働いても、働かないで生活保護を受けても、収入はあまり変わらない。生活保護だと学校の給食費は出してくれるし、衣類や蚊帳を貰える。働く世帯の子がそれを見てひがむ。それどもオートレースが始まると、主催者の飯塚市から無料バスが迎えにくる。どうして生活保護世帯に車券を買うお金があるのか。毛布1枚100円で質に入れる。めちゃくちゃな貧乏物語はまだ続く。去年夏つぶれたヤマの持ち主は12人もめかけを持っていた。炭鉱が閉山するとそのめかけに何10万円という退職金をやった。ところが炭鉱夫の首切りはタダ。失業保険さえなかった。同じ炭鉱労働者でも大手のヤマではずっと安全な職場で、より楽な労働をしている。しかも月給は2倍。テレビもある。しかし、そんな大手の炭鉱でも人員整理がはじまった・・・。

1959年10月13日
 三井三池鉱業所は大量の希望退職者の募集を始めた。12日までに3人の希望退職の申し入れがあった。

1959年11月4日
 炭鉱地帯の失業者問題はますます深刻化。特にひどいのは福岡・佐賀・長崎・山口・福島の5県。

1959年11月6日
 三井三池鉱業所は、三池労組三川支部開発分会長ら6人を懲戒解雇する。三川坑で激しく行なわれている「職場闘争」の責任を問うたもの。会社側は「故意に会社施設を破壊し、業務の運営に支障をきたした」と理由を述べている。

1959年11月11日
 三井三池炭鉱を抱える人口21万人の大牟田市は、いまや対立の町になっている。三池労組に反対した三池製作支部の組合員のほとんどが三池労組を脱退、新しく三池製作所労組(143余人)をつくった。商店街も対立にあえいでいる。市議会内の対立も。

1959年11月23日
 三井三池という組合は、組合員1万4819人。組織は152の職場分会を末端組織とし、本所・三川・宮浦・四山・港務所の5支部がある。これに並んで会員1万3000人の主婦会があり、居住地では地域分会がある。また、「向坂教室」と称し、九州大学教養学部の向坂教授、奥田・川口両助教授、小島講師らが「資本論」や「共産党宣言」などの講義を行なっている。

1959年12月2日
 三井三池鉱業所は、三池労組組合員約1400人に対し、配達証明付きの速達で退職勧告状を輸送した。「9日までに応募しない者については指名解雇する」と会社側は言っている。

1959年12月7日
 三川坑の講堂には退職勧告を受けた組合員約500人の主婦や子供たちまでもが団結の鉢巻をしめて集まった。三川坑から約8キロ以上も離れた熊本県荒尾市の緑ヶ丘社宅から歩いてきた主婦もいる。

1959年12月8日
 三井鉱山の賃金遅配で大牟田市の商店売り上げはグッと減り、経営は苦しくなっている。

1959年12月11日
 三井三池鉱業所は、三池労組組合員1277人に対し「指名解雇通知書」を内容証明付きの速達で郵送した。すでに901人が一般希望退職に応じている。

1960(昭和35)年1月5日
 三池労組、山の上クラブ上空で指名解雇状をヘリコプターで返上。また、同クラブ前で指名解雇状返上デモが行なわれた。

1960年1月12日
 三鉱連(三池・田川・山野・砂川・芦別・美唄の組合員約4万人)は12日、「首切り反対」「去るも地獄、残るも地獄」をスローガンに26回目の波状24時間ストに入った。

1960年1月25日
 三井三池は、早朝一番方からロックアウト実施。これに対し三池労組は無期限ストに突入。三池炭鉱の全機能はストップした。

1960年1月28日
 三池炭鉱栗木社長は27日夜、「中途半端な妥協はあり得ない。倒産するまで闘う」と談話。

1960年2月1日
 西ドイツ派遣の炭鉱労務者54人帰国。その中の宮浦鉱七夕社宅のHさん(25歳)は、「三池労組の迫害がひどい。組合指導者は強い組織の上にあぐらをかいている」と現状に対する意見を述べた。

1960年2月25日
 ロックアウトから1ヶ月。炭鉱社宅のあちこちでこぜりあいが起きている。ある主婦は「組合の尾行が激しいので買物にも行けない」と言っている。

1960年3月7日
 三川鉱野添社宅内で会社を応援する「灯をともす会」の宣伝車が三池労組野添地域分会副分会長(48歳)を轢き下敷きに。これに抗議する600人の三池労組員が車を取り囲み騒然となった。

1960年3月11日
 三池炭鉱主婦会からの脱退者増える。

1960年3月14日
 三池労組、激しい内輪もめ。福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にまたがる13箇所9400戸の炭鉱社宅において、組合主流派と批判グループとの間で激しい吊し上げが続発。暴力事件も数件ある。よって、炭鉱社宅から疎開する家庭が出てきている。

1960年3月15日
 大牟田市民体育館で開催された三池労組の緊急中央委員大会において、組合主流派と批判派が激しく激論。批判派の中央委員69人が一斉に退場。別の場所で「刷新同盟」を旗揚げした。

1960年3月17日
 「刷新同盟」から、第2組合の「三池炭鉱新労働組合」を発足。

1960年3月18日
 三社連(三井鉱山社員労組連合会4500人)、炭労から脱退。

1960年3月24日
 新旧労組、もみ合い。警官隊初出動。第1組合員500人、第2組合員100人、両者は互いに「暴力団!」と罵り合いながらつかみ合った。

1960年3月27日
 26日午後4時過ぎ、小学生十数人を交えた第1組合員約60人が荒尾市の大谷社宅の第2組合員宅になだれ込み、「これが裏切り者の顔だ。よく覚えておけ」と子供らに言いながら、窓をこじ開け 、石や下駄、下水等を投げ込んだ。同社宅には同様の家が60軒ある。

1960年3月28日
 三井三池、新組合員を使って生産を再開。三川鉱前で新旧組合員が激突。血まみれの乱闘により百十余人が重軽傷。

1960年3月30日
 29日午後4時55分頃、四山鉱正門前のピケ隊に外部団体約100人が襲いかかり、隊の先頭にいた三池労組四山支部の久保清さん(32歳)が胸を刺されて死亡。オルグの佐賀県新屋敷炭鉱労組員(32歳)と警察官(37歳)の二人も頭を殴られ重傷を負った。その後約200人の警官が駆けつけ、騒ぎは30分後に収まった。三池労組は「警察は暴力団を制止しなかった」と批判。新労組は「全ての暴力は第1組合による第2組合員への脅迫や暴力事件が原因」と語った。また、第2組合員宅家族は集団疎開した。

1960年4月1日
 童心をむしばむ「三池の暴力」。友達も仲違い。大人の世界が子供に響いている。荒尾市緑ヶ丘社宅すみれ町の俊子ちゃんが疎開トラックに乗った時、追いかけてきた小さな男子がトラックにぶら下がりながら「裏切り者」と叫んだ。俊子ちゃんはその時両手で耳を覆った。

1960年4月2日
 九州各県から警官4600人を増援、投入。

1960年4月5日
 4日夜の北京放送によると、中国炭鉱労働組合全国委員会は、三井三池争議を支持する電報を送ったことが判明した。

1960年4月6日
 追い詰められる「指名解雇者」。焦燥の三池労組員1200人。5日午後、3万人のデモ隊が大牟田市を「ワッショイ、ワッショイ」の喚声で包んだ。赤ん坊を背負い、かつ幼子の手を引いた鉢巻姿の三池主婦会のジグザグデモが猛烈に警官隊を罵りながら、何隊も何隊も通って行った。

1960年4月7日
 東京都中野区の向坂逸郎宅へ右翼団体「治安確立同志会」(約30名)が押しかけ、抗議文を手渡した。

1960年4月8日
 岸首相は閣議で三池争議に触れ「行き過ぎの非難を恐れることなく徹底した取り締まりをせよ」と指示した。

1960年4月10日
 全校児童の96%までが三池炭鉱組合員の子供である緑ヶ丘小学校では、「1万円生活」で教科書も買えない第1組合員の家庭が多いだけに、全校生徒に古教科書を使わせることにした。

1960年4月13日
 三池労組1万5000人の内、1200人に指名解雇通知がきた。その中に300人ほどの組合活動家がいる。大部分は幹部ではなく末端の職場闘争員。会社側はこれを「生産阻害者」と呼んでいる。

1960年4月18日
 第2組合員180人、警官に守られ入構。民社党、炭労を批判。

1960年4月19日
 三池労組、三鉱連を脱退。早期収拾方針に不満。独走態勢強まる。

1960年5月3日
 三池争議警備本部は3日、大牟田市臼井社宅の三池労組員(37歳)と同所三池主婦会員(34歳)を暴行傷害で逮捕した。風呂帰りの第2組合員主婦を数十人で取り囲み、ケガをさせた疑い。

1960年5月4日
 三池主婦会員をさらに3人逮捕。大牟田警察署前に押しかけたデモ隊の中に指名手配中の3人がいるのを発見されたもの。

1960年5月7日
 6日、ソ連の新聞記者3人が三池争議取材のため来日。

1960年5月11日
 三池争議に関する逮捕者数が96人に達した。

1960年5月12日
 三池新労組菊川組合長ら「部落差別」発言で辞意。ビラの中で「三池労組はよく特殊部落と言われている」と発言していたもの。

1960年5月13日
 三池港務所構内にある警備本部前で、第1組合員2000人と警官隊320人が投石と殴り合いの乱闘。警察側114人、組合側57人が負傷した。直接衝突したのは初めて。

1960年5月27日
 「岸打倒」空前のデモ、国会を包む。三井三池宮浦鉱で新旧労組員乱闘、12人ケガ。

1960年6月10日
 全学連、国会内に乱入。女子東大生の樺さんが死亡。圧死か?

1960年6月21日
 岸首相、退陣を決意。

1960年7月5日・7日
 三井三池でまた「海戦」。小石の投げ合い。第2組合員の入構をめぐり負傷者多数。まるで海の無法者。

1960年7月8日
 三池争議に新局面。福岡地裁の仮処分。会社側の言い分通る。裁判所は仮処分決定理由の中で、三池労組側の暴力や生産妨害行為を事実として認めた。しかし、執行吏はピケ隊に取り囲まれ、公示札を立てることを中止し引き揚げた。

1960年7月16日
 三池争議、いよいよ緊迫。警官1万人を動員。オルグも続々集結。現地の大牟田はいまや無政府地帯。

1960年7月17日
 三川鉱ホッパー前広場に10万人の組合員やオルグが集結。江田社会党書記長・宮元共産党書記長・三池主婦会・全労連・部落解放同盟など代表が集まり、大集会が開かれた。

1960年7月18日
 裁判所執行吏、再び妨害に遭い引き揚げる。

1960年7月20日
 中労委、異例の申し入れ。イエスかノーか。「白紙委任」を迫る。1週間休戦。会社は休戦拒否。

1960年7月21日
 中労委のあっせん案を炭労は受諾。第1組合側「我々が勝つに決まっている」。第2組合側「中労委のあっせん案は受けたくない。受ければ三池炭鉱の再建は出来ない」

1960年7月22日
 大牟田警察署前で全学連と警官隊が衝突。重軽傷者270余人。

1960年7月24日
 警官発砲。三池主婦会員がケガ。交番の警官をからかいに来た第1組合員のよっぱらいを保護中。

1960年7月25日
 三池のピケ小屋ガラ空き。警官隊引き揚げ開始。近畿・中国勢の応援部隊もきょう帰る。

1960年8月3日
 三池労組の教宣部長(35歳)を暴力行為等で逮捕。棒や青竹で9人を殴り重軽傷を追わせた疑い。

1960年8月17日
 総評、中労委のあっせん案を受諾。これに対し三池労組の灰原書記長は「これは三池だけの敗北ではない。資本側の攻勢が全労働者の頭上に降りかかってくるだろう」と、上京中の列車内で語った。

1960年8月20日
 第1組合から第2組合へ105人が移る。

1960年9月6日
 三池争議収拾。会社のロックアウトから226日ぶり。

1960年9月7日
 炭労臨時大会、三池の主婦、ただ涙。クビを切られていく1200名の炭鉱労働者はどうなるのか。

1960年9月13日
 「職場闘争は行き過ぎだった」と太田総評議長。

1960年9月19日
 三池の両組合員、また乱闘騒ぎ。双方で20数人ケガ。

1960年9月30日
 三池労組員1000人が一括退職届。残り163人は裁判で争うことになる。三池争議の争点となっていた1200名の解雇問題はこれで解決した。

1960年10月5日
 「これまでの違法行為は徹底的に追及する」と会社側。

1960年10月30日
 中労委の再あっせん案、労使とも受諾決定。再建協定調印。三池新旧労組も話し合う。

1960年11月1日
 1日午後、生産再開。ストとロックアウトを解除。石炭の搬出を始める。1月25日の会社側ロックアウト、組合側の無期限ストから282日目。ピケ小屋の撤去も始まる。

1960年11月2日
 三池争議、完全に終わる。「職場秩序を厳しくして行きたい」(栗木社長)。「生産再開に努力して行きたい。しかし、場合によっては今後も対決を辞さない」(三池労組宮川組合長)。
 黒い羽根運動終わる。集まった募金は約3800万円。衣類46トン。その他粉ミルク・干しうどん・米・薬品・石けん・本など。募金で、傘のない子供に8000本の傘、井戸57箇所、簡易水道25箇所、共同浴場34箇所、電灯185戸、他に便所・託児所を設備する。

1960年11月4日
 三池終戦から早3日目にして乱闘。新旧組合員10数人がケガ。発端は新労組による派手な自動車パレードから。

1960年11月5日
 「双方、刺激的な行為は慎むように」と三池鉱業所。

1960年11月30日
 三池労組員らは「三池労組」の鉢巻を1年3ヶ月振りにはずした。

1960年12月1日
 三池両組合員、311日振りに揃って就労。感情的な対立はうかがえたが、紛争は見られなかった。三池労組員は真っ黒なヘルメットに白線3本、新労組員は黄色に「新」を大きなマルで囲んだヘルメット姿。双方に笑顔は見られなかった。
 大牟田の新港町社宅では早朝5時に約150人の三池労組員や家族が集会所に集まり、「がんばろう」の掛け声と共に一番方の15人を拍手で送り出した。

1960年12月4日
 三池労組宮川組合長ら警察に出頭。「三池海戦」の取り調べに応じる。

1960年12月23日
 三井三池の出炭、戦後新記録。1万11トン。

1961(昭和36)年1月4日
 アメリカ、キューバと断交。

1961(昭和36)年2月18日
 西ドイツの炭鉱へ60人。炭鉱失業者2000人を受け入れたいという申し出があった。

1961(昭和36)年3月
 岐阜県土岐市へ移住。私、小学2年の終わりの時。

1961(昭和36)年3月10日
 福岡県田川郡香春町の上田鉱業上清炭鉱にて坑内火災。71人死亡。脱出はわずか20人。

1961(昭和36)年3月16日
 福岡県八幡市の大辻炭鉱で火災。26人絶望。

1961(昭和36)年3月20日
 82時間振りに遺体収容。父の遺体を担ぐ兄と妹。坑口にはまだ遺体があがらぬ24人の家族が立ちつくしていた。

1961(昭和36)年3月22日
 瓜生所長を最後に24遺体全部を収容。夫人は病院で「お帰りなさい」と頭を下げた。川村次長の家では夫人が、冷たくなった夫の手に盃を握らせ、酒をついでいた。

1961(昭和36)年6月20日
 三池争議中、会社からは「生産阻害者」、組合からは「職場活動家」と呼ばれていた指名解雇者の1202人は、就職難に見舞われている。

1961(昭和36)年8月12日
 新労組員6094人、旧労組員6085人。新労組が旧労組を上回った。ボーナスも新労組の方が旧労組より4500円高くなっている。

1961(昭和36)年8月13日
 東西ベルリン間を閉鎖。

1961(昭和36)年9月14日
 新労組との差別待遇や組織介入に反対して、炭労は三池労組に24時間ストを指令した。

1962(昭和37)年2月4日
 炭鉱離職者、西ドイツの炭鉱へ。かなりの高給だという。

1962(昭和37)年7月16日
 北海道の三井芦別鉱でガス爆発。8人死亡。負傷者に16歳と17歳の少年2人。労基法違反として捜査。

1962(昭和37)年8月13日
 大阪の堀江青年(23歳)、ヨットで太平洋を単独横断。

1962(昭和37)年11月2日
 交通警察官増員の一部に炭鉱離職者を採用、と池田首相が発言。これに対し他の閣僚から「ストやデモをやった炭鉱労務者を警官に採用するのはどうかと思う」との意見が出た。これに対し首相は「警察学校で十分訓練すれば良い」と述べた。

1963(昭和38)年3月28日
 北海道美唄市三井小学校には、ひところ3600人の児童が通い、全国一大きい小学校と言われた。そのほとんどが三井鉱山美唄鉱業所従業員の子供たち。しかし相次ぐ合理化で1900人に減ってしまった。会社が言うように完全な閉山となれば、学校そのものもどうなるか判らない。ヤマの従業員、家族、関連産業が人口の2割近くを占め、三井関係の税収が総額の7分の1を占めるこの町には「閉山」という慌ただしい空気が流れていた。1700戸の炭鉱住宅は次々に取り壊されている。町を冷たい風が吹き抜ける。しかし、「俺達には関係ねえ」と、農家の冷たい声。

1963(昭和38)年3月30日
 三井山野鉱がある福岡県嘉穂郡稲築町では土地の値下がりがひどく、死んだ町のようになっている。

1963(昭和38)年3月31日
 松島炭鉱池島鉱(長崎県)がある小さな島だけは景気がいい。鉱員アパートも次々に建てられ、100億円の資金がつぎ込まれている。

1963(昭和38)年5月3日
 炭鉱離職者に理解をと労働省が呼びかけている。炭鉱離職者の再就職状況は次のとおり。
 一番は製造業61.4%、ついで金属製品・機械器具21.7%、化学ゴム・窯業・土石16%、自動車運転手・郵便配達人などの運輸通信業14.4%。
 地域別では、愛知県22.1%、東京都20.3%、大阪府17.5%、兵庫県12.8%の順。

1963(昭和38)年6月2日
 産炭地の要保護世帯、全国平均の5倍。

1963(昭和38)年6月4日
 「ボーナス、出さぬ」と三井鉱山。

1963(昭和38)年6月29日
 三井セメント発足。その従業員の半数は田川・山野鉱の離職者。

1963(昭和38)年7月2日
 三井鉱山の労使合理化協定調印。52歳以上の高年齢者580人、病弱者、長欠者など計1200人をメドに希望退職を募る。

1963(昭和38)年7月10日
 山口県小野田市の大浜鉱15人生き埋め事故から2ヶ月。海底坑道での発掘作業は続けられているが泥と水で難航。遺品一つ発見されていない。

1963(昭和38)年8月23日
 三井三池鉱の宮川組合長ら10人解雇。三池労組が抗議集会。

1963(昭和38)年8月28日
 京都市左京区田中南大久保町1番地へ移住。私、小学5年の夏休み終わりの時。

1963(昭和38)年9月21日
 筑豊炭田の市の財政は破産寸前。「産炭地は石炭のために苦労もし、日本の発展のためにつくしてきたはずだ。そのあげくは使い古しの雑巾のように見捨てられ、残されたのはボタ山と鉱害と失業者と貧困だけ」。全国鉱業市町村連合会長の田川市長は怒りをぶちまけた。

1963(昭和38)年11月3日
 産炭地へ関心高める企業。1年間に157件進出。その業種は菓子工場・窯業・メッキ業・金属製品機械製造業・縫製業など。

1963(昭和38)年11月10日
 三井三池三川鉱で坑内爆発。171遺体確認。重軽傷300人。350人なお不明。9日午後3時10分頃、福岡県大牟田市の三井三池鉱業所三川鉱第一斜坑(長さ約2㎞)の坑口から約500メートルの坑道で大爆発が起きた。坑内には爆発当時1220人がおり、内400人が脱出したものの、残り350人の安否が気遣われている。原因は坑内炭じん爆発とみられ、戦後最大の炭鉱事故となった。爆音は数キロ先まで響き渡った。爆発後発生した一酸化炭素を中心にしたガスにより、救出作業は難航している。「合理化が原因ではない」と安田所長。
 丁度交代時の惨事。坑底からゆらゆらと灯りが無数に上がってくる。遺体を運び出す救援隊のキャップランプだ。目をカッと見開いた者、苦悶にゆがんで虚空を握りしめた者。うずまく声にならぬ声。

1963(昭和38)年11月11日
 三井三池の炭住街に葬送の灯。英国の炭鉱町から大牟田市に弔電。エリザベス女王等からも。

1963(昭和38)年11月14日
 厚生省は三井三池の爆発事故による負傷者の中に、一酸化炭素中毒で呼吸困難や意識不明となっている患者がかなり多いので対策本部からの要請により精神科関係医師数人を現地に派遣することを決めた。

1963(昭和38)年11月18日
 三井三池鉱業所は19日から、爆発事故による従業員の死者424人の家族に対し退職金1人平均110万円を支払うことにした。

1963(昭和38)年11月19日
 CO中毒患者160余人を収容している大牟田市の三井鉱山天領病院は、内4人の患者を「中毒性精神病」と認め、久留米大学付属病院精神科病棟に移し、保護室で治療を続けることとした。今度の事故で精神病院に収容されたのは初めて。

1963(昭和38)年11月20日
 今回の爆発事故で死んだ450人の霊を弔う「たいまつデモ」が19日夕、大牟田市笹林公園から出発した。たいまつは夜遅くまで空を焦がし、低い歌声が流れる静かな行進だった。

1963(昭和38)年11月23日
 米ケネディ大統領、撃たれ死亡。

1963(昭和38)年11月24日
 大牟田市体育館で爆発事故の会社葬。

1963(昭和38)年12月3日
 三井三池三川鉱事故、死者458人に。

1963(昭和38)年12月5日
 恐ろしい一酸化炭素中毒。後遺症が最大の問題。厚生省、調査団を派遣。後遺症患者には、半身不随・けいれん・精神不安定・ヒストリー症・記憶喪失等がある。
 入院患者284人の内、意識不明4人・精神障害者180人・痴呆者50人・物忘れ130人がいる。

1963(昭和38)年12月22日
 遺族に弔慰金50万円。24日に宮浦鉱・四山鉱再開。

1963(昭和38)年12月27日
 「後遺症患者に長期治療を」医療調査団が報告。

1964(昭和39)年1月3日
 古河鉱業下山田鉱(福岡県)の落盤で生き埋めになった3人生還。91時間振り。大晦日の夜、坑口前に立って、除夜の鐘を聞きながら涙を流していた奥さん(30歳)は「明日父ちゃんが帰ってくる。父ちゃんの好きな甘いお菓子を買って、餅も飾ろう」と10歳と6歳の2人の手をひいて家に帰った。

1964(昭和39)年1月22日
 三井三池三川鉱、生産を再開。73日振り。

1964(昭和39)年2月9日
 三池事故患者専用の診療所を明日から開設。120ベッド。

1964(昭和39)年3月15日
 福岡県田川市の三井田川鉱労組(2100人)解散式。組合旗は三井三池労組に送られた。三池労組と並ぶ代表的な炭鉱労組だった。

1964(昭和39)年5月18日
 国鉄志免炭鉱(福岡県)閉山へ。6月末に75年の長い歴史を閉じる。

1964(昭和39)年6月2日
 宇部興産炭労が分裂。

1964(昭和39)年6月14日
 九州炭労、幕を閉じる。

1964(昭和39)年6月17日
 新潟地震、死者・行方不明38人。

1964(昭和39)年1月3日
 東海道新幹線、全線開通。

1964(昭和39)年8月8日
 三井三池のCO中毒患者11人、ソ連へ。

1964(昭和39)年10月10日
 東京オリンピック、94ヶ国が入場。

1964(昭和39)年11月8日
 三井三池三川鉱のCO中毒患者56人、一年振りに現場復帰。会社幹部の宮地副長は「三池労組員が1人もいないのが淋しいが、復帰ムードが盛り上がれば職場に戻ってきてくれるかも」と語った。

1965(昭和40)年2月23日
 北炭夕張鉱爆発事故、死者60、不明1。生存絶望視。取り乱す母親。坑口前で「お父ちゃん」としゃくりあげる子供。小・中学校も悲しみの休校。

1965(昭和40)年6月1日
 筑豊炭田の三井山野炭鉱ガス爆発。死者237人。戦後第二の惨事に。炭住街に漂う線香の香り。山野病院はまるで野戦病院。働き続けベンチでうなだれる看護婦さんたち。欠席目立つ鴨生小学校。新聞の死亡者名を見ながら「この子も、あの子も」と卒業生の名前を数える先生もいた。

1965(昭和40)年6月5日
 山野鉱の全遺族への弔慰金、一律50万円。

1965(昭和40)年6月9日
 山野鉱死亡者の中に16歳の組夫。労基法第64条違反の疑い。

1965(昭和40)年9月21日
 山野鉱、112日振りに全面生産再開。

1965(昭和40)年10月15日
 会社の指示に従わなかったとして、三池労組員54人謹慎処分。

1965(昭和40)年12月6日
 福島県の常磐炭鉱に「ハワイアン・センター」が作られることになった。温泉を活かし観光事業。苦肉の不況対策。

1966(昭和41)年1月5日
 石炭業界、韓国労務者雇用へ。韓国はすでに西ドイツの炭鉱へ2233人を派遣している。

1966(昭和41)年2月5日
 全日空機、羽田沖に墜落。133人絶望。

1966(昭和41)年3月5日
 羽田で着陸失敗、カナダ航空機炎上。63人絶望。
 英旅客機空中分解、富士山墜落。

1966(昭和41)年6月1日
 改善されぬ組夫制度。炭鉱に直接雇われる鉱員を「直轄鉱員」と呼ぶのに対し、採炭を炭鉱から請け負う下請けを「組」と言い、そこで働く従業員を「組夫」と呼ぶ。全国の組夫は約2万6700人。直轄の20%にあたる。請負組夫を使えば福利厚生費もいらず、責任は組長に転嫁出来る。炭鉱の経営者にとっては「救いの神」なのである。組夫の死傷率は直轄鉱員の2倍半。危険最前線に配置されるからである。

1966(昭和41)年8月2日
 中国文化大革命。

1966(昭和41)年8月3日
 筑豊のヤマ、子供を残し逃げる親。福岡県田川郡の養護施設「田川湯山荘」。置き去りにされた炭鉱の子らを収容している。8歳と7歳の兄妹の父親は数万円の退職金と失業保険を手にしてパチンコと競輪に狂い、働こうとしなかった。母親は若い男と逃げた。兄妹のたった1枚の服はすり切れ肌がのぞいていた。乳離れしていない赤ん坊もいる。同地域の生活保護世帯数は8131戸で全国一。保護費で生活するヤマの人たちを周囲は「国家公務員」と呼んだ。

1966(昭和41)年8月12日
 三井三池三川鉱の炭じん爆発事故、会社責任者ら22人全員不起訴。謎に終わった爆発原因。

1966(昭和41)年10月5日
 三池事故、「不起訴は納得いかぬ」と福岡県警。

1966(昭和41)年10月22日
 ボタ山崩壊、児童ら200人絶望。21日朝、英国南ウェールズ、グラモーガンの炭鉱村、アバーファンで、豪雨のため巨大なボタ山が崩壊、小学校と民家を押しつぶした。

1966(昭和41)年10月26日
 三池災害のCO中毒患者738人に対する労災補償が打ち切られた。「職場に帰れる」と、九州大学勝木教授ら医師が判断。新労組・職組・組夫関係の471人が治癒認定を受ける。残るのは三池労組の患者だけ。

1966(昭和41)年11月8日
 三池の炭じん爆発事故から丸3年。三井鉱山の時効確定。

1967(昭和42)年9月28日
 三井三池三川鉱で坑内火災。死者6、不明1。二百数十人がCO中毒。無理な採炭が祟る。

1967(昭和42)年9月29日
 福岡県警、三川鉱を強制捜索。

1967(昭和42)年10月17日
 三川鉱、19日振りに生産再開。

1967(昭和42)年12月2日
 労災が打ち切られた三池CO患者738人の中の5人に労災打ち切りが取り消された。残り350人は治癒と認定された。

1968(昭和43)年1月8日
 三池労組のCO中毒患者家族と遺族会の主婦29人は、取り扱いに対する三井鉱山回答を不満として、会社前にテントを張り無期限のハンストに入った。

1968(昭和43)年1月9日
 マラソンの円谷選手「もう走れない」と自殺。東京オリンピックで3位になっていた。

1968(昭和43)年1月13日
 三池CO闘争妥結。災害から4年振り。

1968(昭和43)年1月21日
 北海道美唄炭鉱でガス爆発。7人死に11人不明。その11人を残し坑道閉ざす。

1968(昭和43)年1月23日
 美唄の事故、2人奇跡の生還。「ひでよ、かず子を頼む。母さんを大切にしてくれ。もうダメかも知れぬ。死にたくない」という遺書も見つかった。

1968(昭和43)年1月31日
 CO中毒死者の遺族、三井三池鉱に損害賠償請求。民事訴訟を起こしたのは全国で初めて。

1968(昭和43)年3月22日
 会社側の三池CO中毒者230余人、4年4ヶ月振りに就労。

1968(昭和43)年3月
 京都市立高野中学校卒業。その祝いに初めて一人故郷へ行った。

1968(昭和43)年4月5日
 非暴力主義の指導者キング牧師、撃たれ死ぬ。アメリカ各地で黒人暴動。

1968(昭和43)年4月11日
 一酸化炭素中毒症に関する特別措置法、出来て半年。今度の職場復帰者282人のほとんどが、頭痛・吐き気・手足のしびれ・物忘れなどの後遺症を訴える。他にも、重症者のほか通院している者が90人いる。「不具者のまま解雇されるのでは・・」と訴えている。

1968(昭和43)年5月16日
 十勝沖地震、死者14・不明8。

1968(昭和43)年6月26日
 小笠原・硫黄島返還。23年ぶりに日の丸揚がる。

1968(昭和43)年8月21日
 ソ連、チェコを占拠。チェコの死者60人。

1968(昭和43)年9月27日
 二つの水俣病、公害と認定。チッソ水俣工場(熊本県)と昭和電工鹿瀬工場(新潟県)。

1968(昭和43)年12月10日
 東京都府中市で銀行輸送車の3億円、奪われる。白バイを装い。

1968(昭和43)年12月20日
 左うちわの中卒求職者。旅行カバンに衣服など支度金に10数万円支給。

1969(昭和44)年1月10日
 東大安田講堂に機動隊。乱闘の学生52人逮捕。

1969(昭和44)年4月7日
 19歳の連続ピストル魔永山則夫、逮捕。「でかいこと」に憧れ。

1969(昭和44)年5月16日
 住友赤平鉱業所、ガス噴出により12人死亡、5人不明。待機所で待つ家族50人、黙りこくって男達の帰りを待つだけ。

1969(昭和44)年7月21日
 米の有人アポロ11号、月に到達。

1970(昭和45)年3月14日
 世界の祭典、万国博開幕。

1970(昭和45)年3月31日
 日航機「よど号」学生が乗っ取り。北朝鮮行きを要求。

1970(昭和45)年6月27日
 福岡地裁判決、「三池争議の指名解雇はやむえぬ」。ただし、10人については解雇権乱用とした。

1970(昭和45)年9月14日
 万国博閉幕。入場者数は6422万人だった。

1970(昭和45)年10月1日
 一時解雇された三池労組の3人、裁判により10年振りに職場復帰。

1970(昭和45)年11月25日
 小説家・三島由紀夫らが自衛隊に乱入。陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地1号館2階バルコニーに立ち演説後、割腹自殺。演説では「日本を守るとは何だ。天皇を中心とする血と文化の伝統を守ることじゃないのか。俺は天皇陛下万歳を叫ぶんだ」等と語った。犯人の内3人が逮捕されると、自衛隊員は警察の制止を振り切りパトカーに押し寄せ、犯人を殴ったり蹴ったりした。

1970(昭和45)年12月11日
 韓国に「無名日本人の碑」、国内に散乱している無名日本人5千柱を納めた。一方、日本には朝鮮出身の軍人・軍属・家族の2千余柱および連れてこられた労務者1万余人の遺骨が各地に散在したままになっている。

 

1970(昭和45)年12月16日
 北海道の三井砂川鉱で爆発事故、16人死亡。不明者3人を残し坑口を密閉。

1971(昭和46)年2月17日
 過激派学生集団「京浜安保共闘」、銃11丁・弾500発を強奪。

1971(昭和46)年2月22日
 成田空港、強制代執行始まる。反対派1500人結集。

1971(昭和46)年4月29日
 常磐炭鉱磐城鉱閉山。3800人解雇。常磐西部炭鉱会社を5月8日発足。

1971(昭和46)年7月17日
 住友歌志内鉱でガス事故。20遺体確認。全員絶望か。

1971(昭和46)年9月15日
 赤軍派と京浜安保共闘の合体による「連合赤軍」が武闘宣言。

1972(昭和47)年1月25日
 グアムの密林、元日本兵横井軍曹を発見。28年ぶり。

1972(昭和47)年2月20日
 過激派、保養寮浅間山荘の婦人を人質に5人がろう城。発砲し抵抗を続ける。

1972(昭和47)年2月29日
 連合赤軍5人を逮捕。警官2人・民間人1人死亡、負傷12人。犯人の父親(滋賀県大津市)自殺。「死んでお詫び申し上げます。あとに残った家族を責めないで下さい」と遺書が。

1972(昭和47)年3月11日
 榛名山アジトで男8人・女4人の死体を確認。人民裁判という恐怖と独善。

1972(昭和47)年4月17日
 小説家・川端康成氏、自殺。遺書は見当たらず。

1972(昭和47)年5月15日
 沖縄県、祖国に復帰。戦後27年。涙拭う人、押し黙る人。

1972(昭和47)年5月31日
 イスラエルのテルアビブ空港待合室で日本人ゲリラ3人が乱射。死亡26、重軽傷72。犯人2人死に、1人を逮捕。

1972(昭和47)年9月6日
 アラブゲリラの「黒い9月」、ミュンヘン五輪襲う。人質含む全員死亡。

1973(昭和48)年1月10日
 三池労組員で解雇された父・楠元辰雄、鐘紡京都工場の寮で病死。享年61歳。

1973(昭和48)年2月24日
 「公害の原点」と言われていた足尾銅山、360年の幕を閉じる。

1973(昭和48)年5月11日
 三池労組、炭じん爆発で87億円請求しマンモス訴訟。死者の遺族含む422人。

1973(昭和48)年7月21日
 アラブゲリラ「革命のため」とオランダで日航機ハイジャック。犯人は日本人か。

1973(昭和48)年8月9日
 韓国の金大中氏、誘拐さる。白昼堂々、東京都内のホテルで。

1973(昭和48)年9月12日
 チリの軍・警察がクーデター。社会主義政権のアジェンデ大統領、口に銃弾。自殺か。

1973(昭和48)年11月23日
 常磐・茨城が石炭増産へ。石油不足で。「石炭という貴重な国産エネルギーを捨ててバチが当たった」と炭労。増産を拒否。

1974(昭和49)年1月7日
 三井三池三川鉱の大爆発から10年2ヶ月、ずっと「生きる屍」だったCO中毒患者の宮嶋さん(33歳)、死亡。両親は「息子は人間ではなかった。ミイラのようになり化け物だった。せめて昔の姿で死なせたかった。この恐ろしさを会社の幹部に見てもらいたい」と涙ながらに訴えていた。

1974(昭和49)年8月16日
 韓国の朴大統領狙撃される。その夫人撃たれ死亡。犯人は在日韓国人。拳銃は大阪府警の交番から盗まれたもの。

1974(昭和49)年11月26日
 帝人研究所で時限爆弾爆発。

1974(昭和49)年12月10日
 東京銀座の大成建設で時限爆弾爆発。

1974(昭和49)年12月20日
 朴大統領狙撃事件の犯人・文世光(22歳)、死刑執行される。

1974(昭和49)年12月26日
 福岡県の有明炭鉱、掘り始めて22年、遂に炭層に届く。有明炭鉱は日鉄鉱業から三井鉱山に引き継がれていたもの。昭和52年から年間100万トンの出炭を目指す。

1975(昭和50)年4月30日
 サイゴン政府無条件降伏。インドシナ30年戦争に終止符。

1975(昭和50)年5月19日
 連続企業爆破事件で7人逮捕。「腹腹時計」のグループ。「アイヌ・沖縄・朝鮮・台湾人民の反日闘争で闘う」。

1975(昭和50)年7月18日
 皇太子ご夫妻へ火炎びん。過激派、沖縄ひめゆりの塔で。

1975(昭和50)年8月5日
 日本赤軍、アメリカ・スウェーデン両大使館占拠。50人以上人質。日本政府、「仲間7人」の釈放要求をのむ。

1975(昭和50)年11月27日
 北海道炭礦汽船幌内鉱でガス爆発。7人死亡、17人不明。遺体にすがる妻子。「夫はいつもきょうはあっても明日はないかも知れない。だからきょうを精一杯生きよう、と言っていました」と、ある遺族。

1975(昭和50)年11月30日
 幌内鉱ガス爆発事故、坑内に注水。残り13人の救出断念。

1976(昭和51)年3月2日
 北海道庁爆破、2人死に74人負傷。「東アジア反日武装戦線」が声明文。

1976(昭和51)年6月30日
 常磐炭鉱、全面閉山。90余年の歴史に幕。栄枯盛衰。かつては、石炭買い付け業者が札ビラをばらまき、炭鉱関係者を料亭で連日もてなす騒ぎも続いていた。

1976(昭和51)年7月27日
 田中前首相逮捕。ロッキード疑獄。

1976(昭和51)年8月5日
 貝島炭鉱閉山。かつては安川・麻生と並ぶ筑豊の御三家と呼ばれていた。

1976(昭和51)年9月7日
 ソ連のミグ25が函館空港へ強行着陸。中尉、アメリカ行きを希望。

1976(昭和51)年9月10日
 毛沢東主席死去(82歳)。

1976(昭和51)年11月27日
 「夫が父が・・なお地の底に」表札も変えず待つ妻。幌内鉱爆発から1年。犠牲者24人の内13人の遺体は今も地下1000メートルの坑底に取り残されたまま。犠牲者のある妻は、坑内火災を消すための全山注水に同意した自分を責め続けている。また、ある妻(40歳)は「あの人らは補償の利子で食べられている、という人もいる。そんなにカネが欲しいのなら、自分の主人を殺してみろ、とカネをぶつけてやりたくなる時もある」と目を伏せながら語った。「お父さんが帰ってこないのに葬式なんか出来ない」と言う子供たちも。

1977(昭和52)年5月12日
 北海道芦別市の三井芦別鉱でガス爆発、犠牲者25人を確認。毛布にくるまれた夫の遺体が自宅に向かったとき、妻(26歳)は堪えきれずに泣きじゃくった。頭蓋骨、ろっ骨、脚骨が折れ、全身に無数の炭じんが突き刺さり、「苦しい、苦しい」と叫びながら死んで行った者もいた。「もうたくさんだ!!」と誰かが叫んだ声は怒りに震えていた。

1977(昭和52)年9月29日
 日本赤軍、バングラデシュ・ダッカ空港の日航機ハイジャック。奥平・大道寺ら9人の釈放のむ。

1977(昭和52)年10月18日
 西ドイツの特別部隊、航空機乗っ取り犯4人を射殺。人質86人を5分で救出。テロとの戦いに自信。

1978(昭和53)年5月1日
 三井石炭鉱業三池鉱業所四山鉱で炭車暴走、人車に激突。1人死に103人ケガ。炭車の事故でこれほど多数の死傷者を出したことはこれまで例がない。

1978(昭和53)年5月20日
 成田空港、厳戒下の開港。1万3000人機動隊配備。

1978(昭和53)年6月13日
 東北で大地震M7.5。死者21、ケガ365人。震源宮城沖。

1979(昭和54)年1月27日
 大阪・三菱銀行北畠支店、猟銃乱射。警官2人死亡。人質約30人。

1979(昭和54)年3月17日
 元三池労組組合長宮川睦男さん、肺がんのため死去。62歳。昭和28年から46年までの18年間、組合長を務めた。

1979(昭和54)年10月20日
 炭鉱が復活!山口の旧大嶺炭田。昭和52年大明炭鉱を最後に閉山していた。SL用にも引き合い。主に農村を中心に使われている練炭・豆炭用に販売する。専用コンロも飛ぶ売れ行き。

1980(昭和55)年1月9日
 大牟田市の三池労組は財政難のため書記3人を解雇した。これに抗議した1人が組合前の記念塔によじ登り「首切り反対」を叫んで無期限ストを始めた。かつて5000人もいた組合員は今680人。組合収入が激減した。「昨日の味方はきょうの敵」と、ストを見守る市民。

1980(昭和55)年5月25日
 モスクワ五輪、日本不参加。

1980(昭和55)年12月10日
 ジョン・レノン(40歳)、射殺さる。

1981(昭和56)年4月1日
 母・楠元貞枝、福井県鯖江市にて車に跳ねられ即死。享年63歳。三池闘争の中では炭婦協緑ヶ丘若葉地域分会副分会長だった。

1981(昭和56)年10月7日
 エジプト・サダト大統領暗殺。

1981(昭和56)年10月17日
 再建中の北炭夕張新鉱、ガスによる火災で42人死亡、52人がまだ坑内に。救護の10人も帰らず。救助中止。注水へ抗議の怒号。「行方不明ってのはな、坑内にまだいることなんだ。あれだけ無線で交信をしていたんだ。電池が切れることもある。ケーブルが切れた可能性もあるんだ。それをお前らお偉方の判断で死んだと判断出来るのか!」と家族。社長に「お前入れ」。

1981(昭和56)年10月22日
 「注水することで命を絶ちます。お許しいただきたい。お命をちょうだいしたい・・」と社長。その瞬間、会場が静まり返った。あちこちで家族が肩を震わせた。

1981(昭和56)年10月24日
 23日午後1時半、北海道夕張市内にサイレンが響き渡った。地下1000メートルに注水。送水バルブを炭鉱職員が開いた瞬間、サイレンが鳴り響き、鎮魂の音が山々にこだました。4万の市民は仕事の手を休め、深々と頭を下げた。家族たちは仏壇へ向かい手を合わせたままジッと動かない。ヘルメットを脱ぐ者。深々とヘルメットを目深にかぶり、うつむいて唇をかみしめる者。鼻をすする音があちこちから聞こえ、懸命にこらえていた。下校途中の学童、交通巡視員、道行く人らが足を止め、黙とうを捧げた。北炭社長、「再建を焦っていた」と原因を認めた。

1982(昭和57)年3月29日
 北炭夕張、163日ぶりに最後の遺体を収容。ほとんどが白骨化し、身元確認が難航。

1982(昭和57)年10月7日
 沈む炭都・夕張。ヤマの日が消える。つい最近まで鉱員が住んでいた炭住が潰されて行く。昨年の事故以来、すでに100人以上がヤマを去った。夕張市は炭鉱跡の観光化を目指している。

1982(昭和57)年10月16日
 93人の犠牲者を出した北炭事故から一年。炭住街のはずれにある清陵小学校は朝から320人の児童全員を体育館に集め、臨時の朝礼をした。「お父さんを亡くした14人のお友達は大きな悲しみを堪えて1年間よくがんばりました。これからも色々と苦しいことがあるかも知れないけれど、お母さんを助けて強くたくましく生きてほしい」と校長が励まし、全員が黙とうした。

1982(昭和57)年11月12日
 ソ連のブレジネフ書記長、死去。政権の座に18年間。

1983(昭和58)年2月25日
 アメリカ調査委員会、戦時中の日系人強制収容は「不当だった」と結論。

1983(昭和58)年8月17日
北炭、再建断念。全てを完全に密閉。深い眠りにつく。

1983(昭和58)年8月22日
 フィリピンの野党指導者アキノ氏暗殺。

1983(昭和58)年2月25日
 大韓航空機、ソ連が撃墜。「269人全員が死亡」とアメリカ発表。

1983(昭和58)年10月10日
 ビルマ国立墓地で爆発。韓国4閣僚ら19人死亡。全大統領到着寸前の爆発。「北朝鮮の陰謀」と韓国政府。

1984(昭和59)年1月19日
 三井三池有明鉱で坑内火災。72人脱出出来ず。CO中毒で9人死ぬ。18日午後1時50分頃、福岡県三池郡高田町昭和関の有明鉱坑内で火災発生。92人が閉じ込められた。21年前の炭じん大爆発の悪夢がよみがえる。

1984(昭和59)年1月20日
 明暗親子。26時間ぶり父親生還。「息子らは俺の目の前で死んで行った」と絶句。排気坑道の圧縮空気のパイプに「母と妹を頼む」と鉱員の名前が記されてあった。

1984(昭和59)年3月15日
 三井有明鉱83人死亡。CO中毒の後遺症に悩む仲間多い中、57日ぶりに再開。

1984(昭和59)年3月19日
 グリコ社長誘拐さる。犯人、10億円を要求。

1985(昭和60)年5月18日
 北海道・三菱南大夕張鉱でガス事故。死者62人。

1985(昭和60)年8月8日
 滋賀県警山本本部長焼身自殺。大阪グリコ事件の責任?

1985(昭和60)年8月13日
 524人乗り日航機墜落。長野・群馬の県境。坂本九さんも逝く。

1985(昭和60)年8月21日
 CO中毒の三池原告団、分裂。和解拒否派30人が別組織。

1985(昭和60)年11月3日
 阪神、初の日本一。

1986(昭和61)年2月26日
 フィリピン・マルコス独裁政権崩壊。

1986(昭和61)年11月27日
 100年余の歴史持つ三菱高島鉱閉山。全員解雇。

1987(昭和62)年1月16日
 閉山の三菱高島鉱労組書記長自殺。山埼書記長(48歳)は昨年10月から病気の組合長に代わって閉山交渉の先頭に立ち離職者対策に取り組んでいた。最近1週間前から行方不明となっていた。家族や労組宛てに5通の遺書が残されており、「書記長を辞職する」と書かれてあった。同人は親子三代の炭鉱マンだった。石炭業界で組合幹部の自殺者は初めて。
 書記長は閉山後も「全労働組合員の完全再就職を実現させなければならない。これからが本当の闘い」と奔走していた。しかし解雇された本鉱員866人中、わずか40人が再就職確定したに過ぎなかった。厚生部長は「とにかく几帳面な人だった。年末から口数が少なくなり、おかしいとは思っていたが・・」と話した。福岡県大牟田市の三池労組にも14日、「うちの書記長が来てないか」と問い合わせがあった。「会社はなぜここまで追い込んだのか。高島だけの問題ではない」と同中原組合長。「9日夜に札幌で会ったばかり。何故?」と北海道の三菱南大夕張鉱業所の書記長ら。「疲れたから息抜きに来た、とは言っていたが・・」と話していた。

1987(昭和62)年2月1日
 三井三池、四山鉱を閉鎖へ。5年かけて千人を合理化。

1987(昭和62)年3月31日
 国鉄、あす分割民営化へ。汽笛一声から114年余。

1987(昭和62)年7月13日
 三池CO中毒訴訟の和解勧告。原告団、小川団長ら390人。14年ぶり決着。死者に対し400万円。和解派と分かれた新原告団32人と大牟田市の松尾さんら4家族は裁判係争中。会社側は、和解派・新労組・職員労組の患者分を合わせて約26億円の支払いを迫られる。

1987(昭和62)年8月26日
 「閉山、疲れた」。事務局長自殺。北海道夕張市の北炭真谷地炭鉱の退職者でつくる同炭鉱退職者の会の事務局長(57歳)が自殺した。自宅で首つり自殺をしていた。同鉱閉山に伴う退職金の未払いが最大の障害になっており、その交渉に当たっていた。「疲れた」と家族・労組宛ての遺書4通が残されていた。

1988(昭和63)年1月16日
 大韓機墜落事件、金賢姫が爆破を認める。北朝鮮の金正日が指令。

1988(昭和63)年1月17日
 北朝鮮に「拉致された日本人ら女性がいる」と金賢姫供述。10年前に消えたカップル3組か。

1988(昭和63)年3月14日
 青函トンネル(53.58㎞)開通。連絡船80年の歴史に幕。

1988(昭和63)年4月11日
 本州―四国を結ぶ瀬戸大橋が開通。着工から9年6ヶ月。児島―坂出ルート。

1989(昭和64)年1月7日
 天皇陛下崩御、87歳。歴代最長の在位。明日から「平成」。激動の昭和終わる。

1989(平成元)年3月12日
 福岡県飯塚市からの炭鉱離職者家族3人死亡。心中か。サラ金から600万円。

1989(平成元)年3月13日
 死者237人の福岡県山野鉱爆発、死者500万円の和解額。24年ぶり解決へ。

1989(平成元)年7月26日
 三井三池炭鉱坑口、大牟田市から消える。旧三川鉱と旧有明鉱を統合し、「三池鉱」とする。場所は福岡県三池郡高田町。

1989(平成元)年9月29日
 北炭幌内炭鉱閉山。100年の歴史にサヨウナラ。1090人全員解雇。

1989(平成元)年10月16日
 全国一のミニ炭鉱閉山。59人全員解雇。北海道空知支庁栗沢町の伊藤炭鉱。今後は約20人を新たに採用し、露天掘りで経営を続ける。

1989(平成元)年11月10日
 東ドイツ、国境を開放。ベルリンの壁撤廃。数万人、直ちに西へ。

1989(平成元)年12月23日
 ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊。大統領を軍が逮捕。市民勝利宣言。

1989(平成元)年12月26日
 チャウシェスク大統領夫妻を処刑。「國民虐殺の罪」で。

1990(平成2)年1月30日
 東ドイツ元議長ホーネッカー氏逮捕。

1990(平成2)年2月8日
 ソ連の一党独裁に終止符。

1990(平成2)年8月3日
 イラク軍、クウェートを武力制圧。

1990(平成2)年10月3日
 東ドイツ消える。東西ドイツ分断45年の歴史に幕。

1990(平成2)年10月11日
 北朝鮮、抑留7年の富士山丸船長らを解放、帰国。

1991(平成3)年1月14日
 ソ連軍、リトアニアの放送局を占拠。発砲で13人死ぬ。負傷者144人。市民15万終結。

1991(平成3)年2月28日
 1月17日から始まった、多国籍軍によるイラク攻撃の湾岸戦争終結。

1991(平成3)年6月4日
 長崎の雲仙普賢岳噴火。大火災流により37人死亡。「もう逃げ切れない」と警察無線から絶叫後、交信途絶える。

1992(平成4)年12月29日
 戦前・戦中の強制連行(朝鮮人徴用)名簿、新たに1万7000人分を韓国側に引き渡す。労働省によると、福岡県内の炭鉱従業員名簿2件(約1万5000人)と大日本産業報国会の産業殉職者名簿(約980人)。今回の名簿を合わせてこれまでに韓国側に渡した名簿は約10万8000人分になる。

1993(平成5)年1月1日
 チェコスロバキア連邦、チェコとスロバキアに分裂。建国74年の歴史を閉じた。

1993(平成5)年2月19日
 連合赤軍事件の永田・坂口被告、死刑確定。傍聴席最前列には坂口被告の母親(78歳)の姿があった。「あさま山荘」で死傷した警察官の家を訪れてお詫びする旅を続けてきた。息子の死刑確定を確認し裁判閉廷後も傍聴席に座り込んだまま立ち上がれぬ白髪の姿があった。

1993(平成5)年3月26日
 三井三池三川鉱の炭じん爆発、三井鉱山に責任。三池CO中毒訴訟、原告が勝訴。「判決は遺憾」と三井側。
 「裁判の仲間がいなかったらとっくに自殺していた」永津さん(70歳)。CO中毒の後遺症で怒りっぽい性格に変わった夫に何度も殴られ続けてきた。「何度か荷物をまとめて家を出ようとした」山田さん(55歳)。「裁判でもしなかったら夫から逃げだそうという気持ちに負けそうだった」と松尾さん(61歳)。三井鉱山の刑事責任は不問になっていた。

1993(平成5)年6月10日
 皇太子さま・雅子さま、結婚の儀。パレード沿道に19万人。

1993(平成5)年7月19日
 北海道南西沖地震、死者176人。奥尻島300戸炎上。

1994(平成6)年2月23日
 長崎じん肺訴訟、慰謝料低すぎると最高裁差し戻し。「我々はそれぞれの時代に貢献してきた。ほとんどの従業員は病気にかかっていない。だから謝罪する考えはない」と日鉄鉱業側。

1994(平成6)年6月6日
 炭鉱の悲劇を見つめた30年、三池労組の慰霊祭壇閉じる。同労組が新築した「三池労組会館」に引き継がれることになった。現在の事務所は三井会社に返還。

1994(平成6)年7月1日
 自民・社会・さきがけ3党による村山連立内閣が30日発足した。

1994(平成6)年7月9日
 北朝鮮の金日成主席死去。82歳。金正日体制へ。

1994(平成6)年9月4日
 関西国際空港開港。

1995(平成7)年1月17日
 神戸・淡路島大震災。死者・不明1000人超す。高速道路やビル崩壊。震度6。

1995(平成7)年3月18日
 北海道空知炭鉱閉山。105年の歴史に幕。

1995(平成7)年3月20日
 地下鉄に猛毒サリン。日比谷丸の内線。死亡6人、900人被害。

1995(平成7)年3月30日
 国松警察庁長官、撃たれ重傷。

1995(平成7)年5月16日
 オウム真理教麻原代表を逮捕。地下鉄サリン殺人容疑。

1996(平成8)年12月27日
 炭都大牟田のシンボル、三池鉄道存続に光。閉山後は三井東圧が利用希望。「観光に利用出来ないか」という声も出ている。

1997(平成9)年2月8日
 「とうとう出て行かなんですよ」。ヤマと44年間苦楽を共にしてきた木下さんは言った。昭和38年11月9日に起きた三井三池三川鉱炭じん爆発の犠牲にもなった。当時夫は36歳。当時の法律により遺族年金は支給されなかった。33歳だったタエコさんは三井鉱山が設立した布団カバー縫製工場で働いた。そんな中で労使が結んだ「CO協定」で月700円の炭鉱社宅に住めることがわずかな救いだった。解体が進む最大規模の野添社宅。広大な空き地となって行く社宅跡に鉄条網が囲まれて行く。そこにセイタカアワダチソウが生い茂る。決して広くない六畳と四畳半の二間を見回していたタエコさんは思わず座り込んでしまった。夫の遺体を安置した畳。抱きしめて泣くためにかもいに吊した亡き夫の背広。しばらくの間、親戚宅に身を寄せることにした。(西日本新聞)

1997(平成9)年2月15日
 大牟田市の椛島さん(52歳)。三池三川鉱の炭じん爆発の時は名古屋にいた。18歳だった。その時爆発事故をテレビの臨時ニュースが伝えていた。実家の電話は話し中ばかりで全くつながらない。胸騒ぎがして夜行列車に飛び乗った。途中の駅で新聞を買った。その死亡者欄に父の名があった。家に着くと、真っ黒な作業着のまま父が棺に治まっていた。頭の中が真っ白になった。声も涙も出なかった。その時誰かに背中をたたかれてハッと我に返った。遺体の左胸のポケットから写真が1枚出てきた。それは学生服を着た自分の姿だった。涙がせきをきってあふれ出た。
 「解雇される組夫(下請け従業員)の苦しみも考えてほしい」。下請け会社の社長はそう言うと貯炭の山をにらみつけた。三池鉱の下請け会社は16社。孫請け、ひ孫請けを含めるとその数倍にも上る。これらの下請け会社が三井三池を支えてきた。ほとんどは労働組合もない。三池鉱の正規従業員1300人に比べると、再就職対策に雲泥の差がある。(西日本新聞)

1997(平成9)年2月22日
 三井三池鉱閉山目前、大牟田市の造成地から大量の遺骨が出る。黄ばんだ人の骨数十体。造成地の赤土から見つかった。場所は大牟田市新勝立町の工業団地造成地。炭鉱で働かされていた受刑者たちの遺骨だった。元は炭鉱社宅だった跡地。1㎞先には懲役15年以上の受刑者を収容した三池集治監(現・三池工業高校)があった。「炭住が出来る前は受刑者の墓だった」という言い伝えがあった。現に、炭住の土壁からは骨の一部が見つかっている。受刑者が主に働かされた場所は、「監獄ヤマ」と呼ばれていた三井宮原坑。記録にあるだけで死者は2400人を超す。その多くは雑木林だった勝立の丘に埋められていた。集治監廃庁後、元職員が十数体を拾骨したが、本格的な発掘は行なわず、炭住が建てられた。(西日本新聞)

1997(平成9)年2月22日
 三池炭鉱囚人労働者の遺骨70体見つかる。場所は大牟田市新勝立町の公園造成地。囚人を弔うために建立された解脱塔のそば。遺骨は深さ約1メートルの地点に埋められ積み重なっていた。囚人労働は1883年七浦鉱で422人の囚人が働かされたのが始まり。年間70~100人が呼吸器系の病気などで死んで行ったという。(西日本新聞)

1997(平成9)年3月30日
 三池炭鉱、きょう閉山。1207人解雇。1世紀を超す歴史に幕。これで国内の炭鉱は、北海道釧路市の太平洋炭鉱釧路鉱業所と長崎県外海町の松島炭鉱池島鉱業所の2箇所だけとなる。

1997(平成9)年3月31日
 三池争議を闘い「日本最強の組合」と呼ばれた三池労組の決起集会が30日午後、大牟田市労働福祉館で行なわれた。かつて2万人を超した組合員はわずか15人。芳川勝組合長(54歳)はCO中毒で入院中の組合員に話が及ぶと涙で声が詰まる。「今から就職、住宅問題がある。街の衰退を許さない取り組みをして行きたい。協力をお願いします」と締めくくった。(西日本新聞)

1997(平成9)年8月
 ホームページ「異風者からの通信」開設

1998(平成10)年4月4日
 三池炭鉱閉山1年、福岡県大牟田市1427人減、片や隣町の熊本県荒尾市62年増。社宅跡地開発で明暗。荒尾市では社宅跡地を宅地開発し、新しく住宅地や大型スーパー等を建設中。かつて炭鉱住宅地はスラム化し、男性でも1人で足を踏み入れるのが怖いほどだった。(読売新聞)

1999(平成11)年1月26日
 三井三池炭鉱で働きじん肺になった元労働者と遺族が三井鉱山等3社に損害を求めた「三池じん肺訴訟」の原告団は25日、新たに元労働者18人と遺族4人が約6億5千万円の賠償を求めて福岡地裁に提訴する。(京都新聞)

1999(平成11)年5月22日
 閉山した三井三池炭鉱の宮原坑(福岡県大牟田市)および万田鉱(熊本県荒尾市)を史跡指定した。炭鉱の史跡指定は初めて。

1999(平成11)年5月29日
 消える三池争議のシンボル、旧三川鉱ホッパー、解体へ。

2000(平成12)年1月19日
 有明鉱災害から16年。今年は17回忌にあたる。あの時最後に助け出されたという橋本さん(59歳)。毎年焼酎とビールを持って慰霊碑を訪れている。「亡くなった83人の代表という気でいる」という。また、助かったものの災害が原因で脳梗塞になり下半身不随となった西村さん(69歳)は、「死んだ仲間たちのことが忘れられない。身体が動く限り命日には必ず来る」と話していた。(有明新報)

2000(平成12)年2月29日
 関西に「関西荒尾会」発足。関西を中心に活動しているシンガーソングライター関島秀樹さん(滋賀県在住)が花を添えた。

2000(平成12)年3月19日
 元三池労組書記長の灰原茂雄さんが18日心筋梗塞で亡くなった。84歳。

2001(平成13)年5月3日
 三池じん肺訴訟、三井建設と原告20人が和解。残る三井企業は裁判での決着を主張している。

2001(平成13)年12月8日
 国内最後の炭鉱、太平洋炭鉱(北海道釧路市)は、来年1月末に閉山すると発表した。下請けを含め1500人全員が解雇される。

2001(平成13)年12月19日
 「全員を救済してほしかった」。福岡地裁で18日言い渡された三池じん肺訴訟判決は、企業を厳しく断罪しながら、一方で、時効の壁で43人の訴えは退けた。「在職中は三井で働いている誇りもあった。一生懸命働いてじん肺になったのに、謝罪の言葉もない。許せない」と積さんは怒りを口にした。(熊本日日新聞)

2002(平成14)年4月27日
 中国人強制連行、三井鉱山に賠償命令。福岡地裁判決、初の企業責任。戦時中、福岡県の三井三池炭鉱と田川鉱に強制連行された中国人男性15人が損害賠償などを求めていた。木村裁判長は「強制連行・労働は国と三井鉱山が共同して計画、実行した」と認定。

2003(平成15)年10月31日
 三井三池三川鉱炭じん爆発事故の被災者、一酸化炭素中毒患者を一斉検診。大牟田労災病院などにまだ33名が入院している。

2004(平成16)年1月16日
 大牟田と炭鉱を愛し続けた、元参議院副議長・阿具根登氏死去。91歳。三池労組出身。政界引退後も東京在住だったが、「大牟田の人間として死にたい」が口癖だった。

2005(平成17)年4月11日
 戦後最大の労働争議「三池争議」を闘った福岡県大牟田市の三池炭鉱労働組合(組合員14人)が10日、解散し、59年の歴史に幕を下ろした。炭鉱閉山後も組合員の再就職やCO中毒患者支援、足跡を伝える資料保存活動などに取り組んできた。「沈黙すれば弱者切り捨てがまかり通る」。それが、最後の組合長だった芳川勝さんの信念だった。

2007(平成19)年7月1日
 冊子版「異風者からの通信」第1号発行。

2017(平成29)年5月27日
 「湾生」の長兄・楠元政則、滋賀県彦根市にて病死。享年77歳。

2020(令和2)年11月9日
 三池労組最後の組合長だった芳川勝さんらを中心に、炭じん爆発慰霊碑を元三井三池三川鉱に建てる活動を展開、クラウドファンディングを利用して資金集めをし、9日、建立の除幕式が行なわれた。大牟田・荒尾両市長ら多数が招かれ挨拶があったが、三井企業からの参列は無かった。

2021(令和3)年7月1日
 祝「異風者からの通信」第102号。第1号から14年。これを機に休刊したい。

続く