母が1981(昭和56)年4月1日に交通事故で亡くなる2ヶ月前の2月9日付けで母宛に送られた手紙を、最近見つけた。そもそもこのホームページ「異風者からの通信」は、亡き母を想う気持ちから作ったもの。ここにその手紙を記す。
「拝啓 久々のお便り有難う御座いました。お便りによれば大変クロウがあったそうですね。お察し致します。それでも子供様が立派になられたのが何よりの楽しみです。又、沢山の孫さんが出来たそうで、これが何よりの楽しみ事です。申し遅れましたが、ご主人様には8年前に死去されたそうですね。憶念申し上げます。貴女様はイダイナ人です。家内とも話しております。貞枝様のお力で子供さんは大きくなられたのだと。私は福井市の者です。鯖江市には36連隊のあった所です。福井にきょうだいがいます。年賀状に福井にも遊びに来いと書いてきますが、貴女も知っておられるように、大変寒いですから行きたくありません。荒木さん、知ってでしょ。熊本県球磨郡でタバコ沢山作っています。大百姓です。荒木小太郎さん、畑中さん、内田さん、他界されました。お宅の電話番号、お知らせ下さい。大阪に行った時、電話します。私方には子供が無くて淋しいです。台湾に25年間暮らしていたから寒い所は苦手です。台湾から帰ってからこのかた一度も福井へは行かんから何もわからんです。池元君は熊本市から鹿児島に帰っています。松野さん、10年前に熊本市へ妻と二人で会いに行きました。お体を大切にしてお暮らしの程。さようなら。楠元貞枝様へ」(昭和56年2月9日付 熊本県玉名郡岱明町 松岡)
この手紙から2ヶ月後、本当に「さようなら」になった。台湾時代、苦労を共にした仲間からの手紙だったのかも知れない。
・三池炭鉱労働組合若葉地域分会長だった猿渡ハギエさん(故人)からの手紙。母はその副分会長だった。長兄(故人)宛にきた。
「きょうは思いがけないお便りが届いて驚いています。車の事故でしたか。京都におられる頃、お目にかかりましたが、それから8年位になりますね。若葉(*三池炭鉱社宅のこと)在住の頃は色々のお世話役で活躍をなさいましたし、私共お世話一杯かけていました。まだお若いのに残念でなりません。」(昭和56年4月12日付 熊本県荒尾市)
・私にとって荒尾の町は今も現在進行形です。思春期の頃、友人や彼女を社宅の家に連れてくることを恥ずかしく思っていました。友人宅が家を建てて社宅から引っ越して行くのをうらやましくもありました。社宅とその周りの一般住宅との差は開く一方。社宅の住人イコール貧乏人。炭鉱の陰りと共に空き家が多くなって行く社宅。少年犯罪の温床となり、空き家でタバコやシンナーを吸ったりして色んなトラブルが発生して行きました。荒尾の景観を壊す炭鉱社宅は「悪」。「早く取り壊せ」と言う周りの一般住宅。私自身、それに賛成でした。そして、現在そうなりました。しかし、良くも悪くも私の中に存在するあの頃の風景はひとかけらもない。あれだけ嫌っていた社宅なのに、全て無くなってしまえば今度はどこかに残っていないかと探している自分がありました。勝手な自分。この複雑な気持ち。これが今の私の正直な気持ちです。(1994年頃 福岡県男性)
・この間久し振りに父から電話がありました。昔、三池炭鉱から離れて愛知県に来て、就職先を父が探すとき、三池労組のことは隠さなければならなかったそうです。もしそのことが会社に判ると、そのことだけで不採用だったと。前川さんのお父さんが炭鉱に勤めていたことを言わないようにされていたことは、そういう理由もあったのではないでしょうか。「三池闘争時代に生きたお前たちもその影響で性格がゆがんだ」とも言いました。そう言われてみると、否定することも出来ませんでした。(1995年頃 埼玉県男性)
・私の父は三井三池四山鉱に勤めていました。組合の分裂と三池闘争。大変な時代を体験してきた父も70歳半ば。私は47歳になりました。この間18年ぶりに帰った故郷。かつて住んでいた荒尾市の緑ヶ丘弥生社宅跡へ行きました。もう全てのものがなつかしく、心の動揺を抑えることが出来ずに涙が込み上げてきました。社宅の家はありませんでした。しかし、それでも痕跡を見つけました。台所からの排水用の溝、イチジクの木。いくつか見つかってとてもうれしく、ドキドキしました。(1995年頃 埼玉県男性)
・アメリカからメールしています。私たち夫婦はあなたと同じ荒尾市出身です。ワイフは緑ヶ丘楓町社宅に10年住んでいました。緑ヶ丘小学校には4年生までいました。父は中国から引き揚げ後、三井三池三川鉱に行っていました。その父もけい肺で亡くなりました。渡米して早30年。7年前には子供たちから幽霊屋敷と名付けられた社宅が無くなっていて、パーキング場等になっていてびっくりしました。もう故郷は無いのだとあきらめていた矢先、あなたのHPに出会い、本当にうれしかった。年と共に故郷が恋しくなるのでしょうか。(1999年10月19日米国カリフォルニアから)
・私の父も炭鉱夫でした。北海道夕張炭鉱の中の小さな炭鉱でした。12歳の時閉山となり、部落の全員、静岡県や千葉県などに引っ越しました。その後私もあなたのように主人や子供たちと共に北海道の炭鉱跡を訪ねたことがあります。しかし、故郷はもう昔のままではありませんでした。人が生きてきた場所、それが無くなってしまうということは、そこに生きてきた歴史もまた無くなってしまうようで、とても寂しかったです。(1998年3月12日 愛知県女性)
・父が語ってくれた話をひとつ思い出しました。三川鉱の炭塵爆発があって沢山の人たちが亡くなられた時、PTA会長だった父は緑ヶ丘小学校の校長と一緒に若葉町等を弔問に回ったそうです。その時驚いたのは、二軒に一軒の割合で葬式の花輪が飾られていたこと。それはもう悲惨な光景だったということでした。若葉町には三川鉱で働く人達が多かったからです。(1998年8月22日 埼玉県男性)
・家族が寝静まった深夜、一人このホームページを見てはふるさと大牟田を思い出しております。このページを見たときは涙が次から次にあふれてきて止まりませんでした。単に懐かしさだけでなく、様々な思いがわいてくるのです。三池争議で解雇された人たち、炭塵爆発で亡くなった人たち、坑内で永年働いてくれた父などのこと。私の父は宮浦鉱で働き勝立社宅に住んでいました。もうその故郷はありません。私の父は55歳で定年退職し、そのまま大牟田に住んでいましたが、58歳の時クモ膜下出血で入院、一ヶ月後に亡くなりました。「炭鉱に勤めているもんは長生きせんばい。そやけん、厚生年金も早よもらわるっと」と父は言っておりましたが、そのとおりになりました。三池争議の頃は私は小学5、6年生。指名解雇の配達があった日は、みなさん外に出て固唾を飲んでいました。爆発の日は弟の遠足の日。小学校へ帰りの迎えに行こうとした時、爆発音と共に家の窓硝子が揺れました。その夜は一晩中社宅のスピーカーから「○○卸、○○名全滅」の放送が流れていました。このホームページを見せていただきありがとうございました。(1998年9月25日 大阪府女性)
・あなたが三池闘争のビデオを購入されたことを知り、嬉しさ故にペンを走らせています。私は71歳。三池炭鉱宮浦支部にいました。このビデオの原本となったフィルムは、私が50年間生活していた大牟田市の勝立社宅紅葉ガ丘分会の仲間が1年ががりで自分の8㎜映写機を使って撮った闘争の記録です。主として宮浦支部とその社宅が中心になっているので、前川さんの両親の姿は無いと思います。しかし、前川さんがおられたという荒尾市の緑ヶ丘若葉町社宅のことはよく知っています。あそこには第一組合員でCO患者になられた村上さんがおられたのでよく行き来していました。だから、前川さんのご両親がどんなに苦労されたのか、圧力や誘惑にもめげず、人として生きる道を、また、多くの仲間たちを大事にして生きてこられたことだけは、信じて欲しいと思います。(1999年11月7日 横浜市 故・藤澤孝雄さん)
・私は直方の新入炭鉱、水巻の日炭高松、宮田町の貝島炭鉱などを転々として育った。飲んだくれの怒号、共同便所、土埃、貧困、下品な大人達等、嫌で嫌で仕方がなかった。唯一の望みはここから抜け出すこと。一生懸命勉強をして、国立の有名大学を卒業した。そして大きな化学会社に就職。ようやく炭鉱から抜け出したと思っていたら、最初に配属された場所が大牟田の化学工場。寮のすぐ裏には三井天領病院があった。そこから毎日リハビリに励むCO中毒患者の人たちが見えた。今、私も50近くなり、思い出すのは炭鉱のことばかり。あれほど嫌いだった炭鉱が、どうしてこんなにも懐かしいのは何故?(1998年11月27日 東京都男性)
・私は4年生の時荒尾市の緑ヶ丘小学校に転入してきました。そのとき炭鉱の組合が新労と旧労に分かれており、子供同士もそれで言い合いになっていました。喧嘩や決闘まであり、どちらに付くのかと私も言われたことがありました。我が家は炭鉱の派遣会社をしていて、私はどちらにも付きませんでした。中学校へ行っても、炭鉱の緑ヶ丘社宅の子は「家なし子」と言われ、逆に地元の子は「どん百姓の子」と言い合いになっていました。昔の子はタフだったと思います。(1999年1月21日 長崎県女性)
・炭鉱の記事、大変懐かしく、心の支えです。私がいた日炭高松、親父は急死に一生を得たことがありました。落盤事故、その時の母の乱れよう。いつもお金のことで夫婦喧嘩。ガス爆発の時は白木の棺桶が社宅の中から五つ、六つ。前川さんのHPを見ていたら、無性に若松へ帰りたかです。(1999年4月11日 宮崎県 故・岩本さん)
・私は昭和27年生まれ。大牟田南高校を卒業し、現在福岡市内で歯科医院を開業しています。父は四山鉱で採炭夫でした。妻を数年前に我が四山社宅跡に連れていきました。しかしそこに住んだことがない者にとっては何も思い浮かばなかったようす。私の町は消えましたが、このページはいつまでも守り続けてください。(1999年6月9日 福岡市男性)
・インターネットで「みいけ」のことを語ってくれることに心より感謝し拍手を送ります。私は天草出身。昭和23年、緑ヶ丘向日葵町社宅に来ました。その時小学校3年生でした。その後大牟田市の臼井社宅に移り38年間暮らしました。そして鉱山学校を卒業して三池炭鉱で働き、現在は再び荒尾市に戻りました。きょう29日は年一度の「三池CO被災者の会」の総会でした。そこであなたのことを「こういう人がいる」と皆に知らせました。かの、たくましかった三池の母ちゃんたちも早70代です。先輩たちも年毎に逝かれます。しかし、あなたの若葉社宅にいた園田茂一さん(90歳)や猿渡ハギエさん(80歳)はまだ元気です。(2000年6月30日 熊本県荒尾市男性)
・昨日、両親がこのHPを見るため、私の家に来ました。「あっ、これも知ってる、これはこうだ」などと説明。「へー、よくこのような写真を残していたなあ」と感心することしきり。そして、ポロリと目から涙が。私、昭和32年に大牟田市新港町社宅で生まれました。親父は前川さんのお父さんと同様、指名解雇を受け、昭和40年、職を求め東京に出てきました。その親父も80歳。あまり三池闘争のことは語りませんが、このHPを見て、胸迫る思いがあったようです。幸いにして親戚が大牟田にいますので、数年に一度ぐらいは帰ります。その度に新港町社宅跡の前に呆然として立ち尽くす自分。そこにはもう何もありません。なのに何故、これほどまでに懐かしく、あの日に帰りたいと思うのでしょうね。(2000年9月3日 東京都男性)
・三川坑の炭塵爆発のことについて少しだけ書きます。あの時は土曜日で、翌日の朝にはラジオで亡くなった人の名前を告げていました。いとこが勤めていたので耳をそばだてて聞いていました。ラジオではいとこの名前が無かったので安心しました。ところがなんと、そのいとこは亡くなっていました。一番奥で仕事をしていて事故に遭い、24時間後に運び出されました。友達のお父さん(新港町社宅)もCO中毒患者として通院されていましたが、昨年亡くなられました。だんだんと当時の人は力尽きて亡くなって逝かれる中、前川さんのページは後に残る者を勇気づけていると思っています。頑張ってください。(2001年3月19日 大阪女性)
・私も昭和23年から大谷社宅を経て緑ヶ丘山吹町社宅に平成元年まで住んでいました。そして三池炭鉱が閉山する平成9年まで炭鉱夫として働いていました。前川さんは単に郷愁のためだけに炭鉱遺産を残そうと運動をされていると思っていました。しかし、やはり、三井が三池の地に功績も残したが、多くの労働者の犠牲の上に繁栄したことを知ってほしいと思ってメールを差し上げたしだいです。(2002年1月4日 熊本県荒尾市男性)
・私の家は緑ヶ丘桂町社宅の95棟でした。炭塵爆発の時は社宅道路を夜遅くまで車が行ったり来たりしていました。今年は25年ぶりに正月を故郷で迎えました。その時パソコンを携え帰りました。自分の親だけでなく、近所の知り合いの方々を呼んで、パソコンの中にある「異風者からの通信」を見せました。その労働歌の所で「炭掘る仲間」の歌が流れた時、誰とはなしに歌い始め、合唱となりました。解雇通知に対し一丸となって闘った親たちの姿は素晴らしいものと考えています。皆散り散りバラバラとなりましたが、現在の企業の中で働く者たちの生き方の手本にもなると考えています。あなたのホームページの中に父の姿があるのを母が見つけました。知り合いの東さんの奥さん、草野さんのおばさんの姿もあり、大変懐かし拝見しました。このホームページを開設されている前川さんに感謝します。将来、この文書版が作成されることも夢見ています。(2002年2月28日 神奈川県川崎市男性)
・父は炭鉱ではありませんでしたが、私も熊本県荒尾市出身です。三池争議の時は自宅近くの競馬場に機動隊が幕営していました。その競馬場の堤防下で遊んでいるとき、海上で新旧組合同士が戦っているのを見たこともあります。近くの大平社宅では、解雇通知書の配達に郵便屋さんが来ると町内放送で知らせていました。炭塵爆発の時は、宮内出目の自宅の窓硝子がビシビシと鳴りました。そして四つ山の方を見ると一筋の黒煙が上がっていました。わが町内でも沢山の方が亡くなりました。多くの遺族が出来たため、修学旅行の小遣いは厳しく制限されました。その遺族の子供さんへの配慮だったと思います。先生が爆発による告別式に参列されるので毎日授業は何時間かは自習になりました。(2002年7月27日 大阪府高石市男性)
・先日はお会いしていただきありがとうございました。夫が生前、三池炭鉱会社の社紙に漫画を連載していたとはいえ、私は炭鉱に関する生活経験の環境はありませんでした。それでも私たちも三井三池炭鉱に関わってきた者として、決して忘れることはありません。今年の暑い夏は「ゴッつあん」の出版と同時に炭鉱に始まり炭鉱に終わろうとしています。(2002年8月29日 熊本県長洲町 女性)
・私は昭和23年生まれ。亡父、長兄、次兄、炭鉱マンでした。だから私も炭鉱マンになると言ったら、母親にこぴっどく怒られました。1人ぐらい外の仕事をしろ、と。炭塵爆発の時は高校生。大牟田高校で授業中、ドーンと地響きがありました。一斉に皆が窓から外を見ました。すると白いような黒いような煙が空に湧き上がっていました。幸い兄二人は無事で、助けに行きました。その長兄第二組合、次兄バリバリの第一組合。その時の家の中は争いで凄かった。下の兄が2001年5月、詩集「もう一つの三池」を出しました。(2002年9月16日 福岡市男性)
・私も熊本県荒尾市生まれ。西原社宅に6歳頃まで住んでいました。炭塵爆発の時父は二番方。遊びから帰って爆発のことを知らされました。「父ちゃんは大丈夫たい」と思っていましたが、父は人車に座ったまま眠るように逝ったそうです。兄は閉山まで採炭夫でした。(2002年10月31日 名古屋市男性)
・私は緑ヶ丘山吹町社宅で生まれ育ち、高校卒業まで住んでいました。先日、四山鉱坑内で電気係員だった父が84歳で亡くなりました。最後まで三池労組員でした。父の葬儀の日、炭鉱での思い出話を語ってくれた人がいました。亡き父は炭鉱退職の日、ひと言挨拶をすると言って、職員の制止を振り切って繰込場へ行くと高い所に上がって、これまでの思いのたけをぶちまけたそうです。その時すでに三池労組員の数は少なく、三池労組員は作業環境が悪い場所に配置されるのが常で、賃金の差別もありました。そうしたことへの思いが演説になったのではというお話でした。温厚と思っていた父。しかし内面では闘志を燃やし続けていたのです。また、私が中学一年生の頃でした。父は三番方から帰ってくると、そのまま近くの土木工事現場へアルバイトに行っていました。夕方、土方から帰ると3時間ほど寝て、再び三番方に出勤していました。母もパートに出ていましたが、食べ盛りの男子3人居て、家計は火の車だったのです。(2003年5月4日 北九州市男性)
・私は緑ヶ丘楓町社宅出身です。父は32名裁判の1人でした。私の父もことある度に「三池のことは語るな」と私に言っていました。前川さんの荒尾を離れる際のくだりに、父の思いがよぎりました。(2004年11月10日 北九州市男性)
・お母様のお写真を拝見させてもらいました。私が思う以上に当時の戦い(あえてそう呼びます)は大変なものだったかと思います。一方で、人間としての権利や尊厳を守るための戦いだったのだと思います。それは今日の前川さんに重ねて見てよいのでしょうか。この碑の前で何と語るのでしょうか。それは番組が動き出した時に改めてお聞きしたいと思います。(2004年11月9日 NHK女性)
・私は荒尾市の緑ヶ丘若葉社宅61棟にいました。荒尾タクシーの詰め所の前でした。あなたのお母さんや兄さん、お姉さんを知っています。お兄さんとは一緒にアルバイトにも行きました。私は三川鉱で30歳まで働き、昭和45年2月に退職しました。炭塵爆発にも遭い、CO中毒患者として5年間療養しました。被災後は坑外で簡単な仕事に就きましたが、この時大半の者が三池をやめていきました。あなたのことは合唱団の伊藤さんや青木さんから教えてもらいました。あなたの冊子1号の裏表紙写真に私や両親が写っていてびっくりしました。あなたのご両親と親しかったという安保さんや葭原さんのことも知っています。(2005年頃 札幌市 元炭鉱労働者)
・毎日「異風者からの通信」を楽しく拝見しております。その掲示板に映画「筑豊のこどもたち」のことが載っていましたね。私が住む赤池町でロケがあり、父もエキストラで出演していました。主演の加東大介と一緒に写った写真もあります。でも私はこの映画が嫌いです。炭鉱イコール貧困。「筑豊」はもっと元気があり明るかった。こんなに辛い生活は考えられません。炭住生活を悲壮感だけで作り上げる映画には納得がいかないのです。炭鉱夫だった父が85歳まで生存出来たのは、エネルギー革命による炭鉱閉山のお陰だと私は思っています。(2005年8月 福岡県田川郡赤池町 女性)
・私は大牟田の中学生。夏休みの宿題で炭鉱のことを調べました。あなたのホームページの写真や情報を基に「炭鉱のここに注目!!」というタイトルで冊子を作りました。炭塵爆発や坑内火災等、その事故から学んだことを私も伝えて行きたいです。(2005年8月30日 大牟田市女子中学生)
・暴力路線は支持を失います。社民党の低落ぶりを見れば明らか。こちらのお立場は旧労?それとも新労?(2006年2月3日 福岡県)
・私は62歳。昭和38年三池工業高校を卒業するまで荒尾市の西原社宅にいました。三池炭鉱の各社宅の中を自転車で通る通学は「炭掘る仲間」や「がんばろう」の歌が聴けない日はありませんでした。私の父は三川鉱に勤めていましたが、例の炭塵爆発に遭遇し、身体の自由を奪われたままの入院生活を退職まで続け、一度も退院することなくこの世を去りました。「三池」という言葉は郷愁を感じるなにものでもありません。懐かしさいっぱいの前川さんのHPに巡り会えてうれしく思っています。(2006年6月13日 大阪府男性)
・私は緑ヶ丘暁町社宅53棟に住んでいました。昭和40年三池工業高校を卒業。現在茨城県に住んでいます。三池労組員だった父は、昭和38年の炭塵爆発でCO中毒患者となり、25年間病院生活。70歳で他界しました。「異風者からの通信」は原点を語るHPです。(2006年11月6日 茨城県男性)
・「異風者からの通信」第2号、ありがとうございました。「三池炭鉱離職者からの手紙」読みました。そこで触れられていた「三池闘争」のこと、「単なる首切り反対だったのに向坂氏が政治闘争にしてしまった」と批判されていました。熊谷博子監督の「三池」の映画でも、元三池主婦会長が「三池闘争」を批判していました。「三池闘争」がなぜ起こったのか。なぜ総労働対総資本という大闘争に発展して行ったのか。今、「首切り反対」どころか「賃上げスト」さえ打てない時代となりました。それはどうしてなのか。前川さんが言う「我が家にとって三池闘争とは何だったのか」について、闘争から半世紀、いま明らかにされるべき時期に来ていると私は思っています。(2007年 大牟田市 元炭鉱労働者)
・あなたのこと、有明新報で知りました。父、明治40年生まれ、退職後間もなく63歳で亡くなりました。炭鉱は社宅が貰えると言って、昭和24年に三川鉱へ入り、仕繰工として13年間頑張りました。三池労組員でした。そのことがきっかけで私も社会に目を向けるようになりました。戦争中は鹿児島県出水市で暮らし、私は阿久根で生まれました。身近に感じています。(2007年7月5日 荒尾市女性)
・いつも冊子をありがとうございます。でも、家人たちの反対があり、もう送らないでください。理由は「嫁いだ以上その家に従え。どこの馬の骨ともわからない者に我が家の住所を教えて、悪用されたらどうする」という者でした。私の大学や社会人時代の友達に手紙を書くことさえ文句をいわれます。私の実家は福岡県高田町。父は農漁業を営み、母は教員でした。近くには三池炭鉱の有明鉱がありました。だから実家では本があふれていました。しかしここに嫁ぎ、一冊も本が無いことに驚きました。それでも故郷を想う気持ちは忘れずに頑張っていきたいです。(2008年2月4日 愛知県大府市 女性)
・私の父は福岡県警として三池争議に出動していました。その父からのエピソードです。当時の警察や労働者は軍隊経験者が多く、そんな中、警察官の上司が「○○君、向こうで指揮しているリーダーだけど、○○戦線の戦友に似ているんだよ。調べてほしい」と言われ、内偵するとやはり戦友だったそうです。その話を語ってくれた父も10年前に他界。生前の父は、全共闘はボロクソにけなしていましたが、三池の労働者を憎むようなことは一切言っていませんでした。共に惨めな敗戦を経験し、命をかけて日本の復興に尽くしたことに、イデオロギーを越えた、ある種の連帯感があったのかも知れません。(2008年5月13日 福岡県男性)
・亡き父親の三池炭鉱退職給与計算書などが出てきましたので、資料として同封しました。お願いがあります。前川さんがお持ちの緑ヶ丘小学校の文集「つくしんぼ」、コピーして送っていただけないでしょうか。そこにあった永登修先生は私の5、6年生の担任でした。なつかしく思いました。(2008年6月15日 熊本市男性)
・この度はビデオをありがとうございました。私たちの美唄小学校は、当時の繁栄振りを象徴するように、とてもハイカラな建物でした。閉山が決まってから同級生だった友達が1人減り、2人減りと、卒業時はたった一クラスになり、全校生は23名ほどになりました。皆、どうしているのでしょう。あれから50年程、世の中も人もこんなに変わるのかと・・・。(2008年10月14日 横浜市女性)
・私はあなたのお姉さんと緑ヶ丘小学校で同窓でした。社宅は桂町でした。父は2003年に86歳で亡くなりました。炭塵爆発で被災。掘進工だった父は四山鉱から脱出しましたが、CO患者となりました。そして32名の原告団の1人として裁判で三井と闘い、私たち子供も証人としてCOの惨状を裁判で訴えました。中には泣きながら訴える子供も多くいました。(2008年12月18日 熊本県山鹿市女性)
・私の父は三川鉱の採炭夫でした。51歳の頃炭塵爆発に被災。CO患者として性格は一変。凶暴ではありませんでしたが、「ナヨナヨ」しながらの通院でした。爆発から16年後に67歳で亡くなりました。(2008年12月18日 熊本市女性)
・私は昭和25年生まれです。HPの写真にある、三池労組四山支部前でヘルメットをかぶっている男性は私の父です。長崎県生まれの父は東京の大学を出て、満州に行き、終戦により大牟田へ行きました。そこで55歳の定年まで三池炭鉱で働きました。父は最後まで第一組合でした。親戚が三井の役員だったので、第二組合に移れとだいぶ説得されたようです。炭塵爆発の時は救助隊員として坑内に下がり、あとガスでCO中毒にかかりました。そのためずいぶん苦しんでいる父を見ました。あの時の家の中は暗かったです。(2009年5月15日 女性)
・先日父の一周忌を終え遺品の整理をしていたら、三池闘争時のビラなどが出てきました。前川さんに送ります。父は晩年痴呆になりましたが、三池闘争のことは覚えていました。「一万円生活の中でお前ら3人を育てていくのに苦労した」と言っていました。前川さんのお母さんが写る集合写真の中に私の母が写っています。右から三人目です。その母も3年前に92歳で亡くなりました。今も元気であったなら、前川さんのお母さんのことも聴けたのに残念です。私はお母さんの顔、覚えています。あなたと似ていますね。(2010年1月 熊本県荒尾市女性)
・主人の父は江嶋小次郎。明治39年生まれ。17年前に亡くなりました。主人は二年前に脳出血で倒れ、今も右半身マヒ、リハビリに頑張っています。闘争の時は悲しい思い出らしく、今も話したがりません。「思い出したくもない」と言っています。三池の資料は今まで何回も引っ越しをしていてその度に無くし、今は少ししか残っていません。今少しだけ残っているものをお送りします。主人もあげて良いと言っています。主人のお父さんは大きな闘争の時先頭に立って戦われ、最後は留置場に入れられました。あなたにお送りした「みいけ二十年史」の410ページのことではないでしょうか。赤い旗の寄せ書きもお送りします。必要なければ捨ててください。ホッパーパイプも形見なのか我が家に残っています。主人72歳、私67歳。子供四人。住んでいた社宅は緑ヶ丘敷島町12棟。四山鉱勤務でした。(熊本市 女性)
・前川様のご両親も仲間と共に正義を貫いて歩まれたことにきっと誇りを持って生きてこられたと思います。その証拠に、あなたは三池の仲間にも愛情を込めて今も語っておられますよね。その姿に尊い仲間の宝を感じます。年を重ねるごとに真の仲間がいかに大切な財産であるかと、しみじみ感じてもいます。同封しました三池主婦会の鉢巻、あなたの母上様の形見と思ってください。(2010年1月23日 大牟田市 元三池主婦会会長 故・島フミエさん)
・闘争中も大変だったけど、その後の差別攻撃、脱落工作の方が家族にとっても大変きびしいものでした。第一組合と第二組合の数が逆転した後の厳しさは簡単に語ることはできません。家族ぐるみの闘いが無かったら、とっくの昔に三池労組は無くなっていたでしょう。全国の働く仲間の連帯と激励、そして夫が定年の最後まで三池労組員として頑張ったからこそ、貧しくても誇りを持って生きていけたのだと思っています。この年になると第一も第二もありませんが、やはり心から信頼してお付き合いをしているのは三池労組員として頑張った人たちです。人を蹴落としてまで生きて行かなければならない今の人たちには理解出来ないことでしょうね。(2010年2月17日 熊本県荒尾市 元三池主婦会会長)
・大牟田市の野添社宅から朝合図で流れてくる「がんばろう」の労働歌が聞こえてくると、物言わぬヒロシは体を震わせて喜びました。森永ヒ素ミルク中毒でモノも言えなかったこの子が、一番好きだった歌でした。(2010年3月12日 福岡県筑後市 89歳女性)
・大牟田とのつながりが深い与論島へ一人で旅してきました。亡くなった祖母がよく「あそこはヨーロンやけん」と言っておりました。いまだに大牟田では根深い差別が残っています。かたや与論島の人々はとても温かく、「大牟田から来た」と言うと、とても親切にしてくれ、昔話などを語ってくれました。炭鉱時代のものがありましたらお送りします。(2012年2月20日 福岡県大牟田市女性)
・先般の「50年展」でお話させていただきましたとおり、あいりん地域の釜ヶ崎にはかつて福岡県の筑豊や大牟田地方の炭鉱で働き、「合理化」により失業後、大阪に働きに来て、そのまま故郷に帰れない日雇い労働者が多く見受けられました。横川先生と一緒に筑豊文庫へ向かい、上野英信さんからお話を聴く機会にも恵まれました。(2013年12月23日 大阪府堺市男性)
・私は三井化学で働いていますが、出身は長崎の川棚です。私の父は私が6歳ぐらいの時に工場をやめて家業の漁師を継ぎました。その時は「もうお前たちにお金の苦労はさせない」と言っていましたが、その日暮らしの毎日で、いつも夫婦喧嘩が絶えない家庭となりました。だから私は早く家を出たくてたまりませんでした。いま三池闘争やCO闘争に学ぶ中で、ある日帰省した時、父が「三池闘争の時は長崎から船団を出して、三池沖で三池労組を支援した。俺もその執行委員をしよった」ということを話してくれました。前川さんのお話を聴き、改めて私の父のことを考えることができました。(2014年6月19日 大牟田市男性)
・先日は貴重なお時間をいただきありがとうございました。前川様のお話やご準備いただいた展示の中で、いつも写真の中央で笑っておられたお母様の姿が強く印象に残っています。私たちのために素敵な博物館を開いていただき本当にありがとうございました。(2014年12月12日 神戸大学女性)
・お尋ねの歌人・長山不美夫のこと、思い出すままにお知らせします。1913(大正2)年生まれ。自宅は大牟田市新町94の県道沿いでした。昭和30年代はじめの頃から私たちの「炭鉱地帯」に投稿していました。長山さん主宰の歌誌「母船」は1961年創刊。短歌の「大牟田歌話会」(1955年発足)の理事や事務局長を務められました。長山さんの短歌の特徴は「生活者の立場」を貫いたものでした。だから「母船」には炭鉱のことを題材にした作品が多くありました。なお、炭鉱労働者歌人としては10数人あげられます。木村守「鉄帽」、前田義則「坑道」、松原直吉「松のいのち」、遠藤長市「じん肺短歌集」があり、俳句では田中津根「貝群」、谷口まこと「円虹」などの句集があります。(2017年9月6日 荒尾市 元炭鉱労働者)
・「三池閉山20周年」に息子と大阪まで行けたこと、今年最大の感激となりました。娘は夫が三池に行っている時に産まれましたし、息子は5歳でした。ホッパーパイプは長い間床の間に飾っていましたので、息子は少し覚えていたようです。あなたに差し上げた赤旗などは、息子に取って初めて知るもので、会場では父親の足跡として写真に収めておりました。夫亡きあとも色々お手紙や手作りの袋などを馬渡社宅の人たちから送っていただきました。三池の人たちの親身な温かさを思い起こしています。当時夫はオルグとしてピケに行きました。あなたに逢えて良かったです。(2017年12月13日 三重県津市女性)
・肉親への愛が台湾への道を開いていかれるのを感銘せずにはおれませんでした。炭鉱と引き揚げが関係深いという洞察、私も感じかけておりました。私は戦後蘇澳会を立ち上げるお手伝いをしましたが、九州の炭鉱に就職しておられた方が肺気腫になって苦しんでおられたので、就職状況など少し知り得ました。台湾協会には比較的恵まれた引揚者が多いのですが、本当に苦しんだ引揚者の記録は乏しいと思います。前川様が赤裸々にお書きになられた引揚者を迎えた立場の方の姿も人間の本音が出ていると思いました。本当に人生いろいろ、人さまざまですね。前川様がルーツ探しのため台湾協会へ来られたなんて、私は電流が走ったような偶然の不思議さを感じたのでした。前川様の几帳面なご誠実な探究心は、資料的にもすばらしいもを世に残されるのではないでしょうか。(2018年8月20日 東京都女性)
・「炭鉱以前」、受け取りました。そこであなたが台湾を訪ねられたことを知りました。「湾生」という言葉を初めて知りました。ぼくは教会関係で何度か台湾に寄せていただきました。玉山神学院という原住民(イエンツーミン)の教会の牧師を養成する学校にも何度か寄せていただきました。前川さんのルーツ探しはまた違った日本との関係を教えていただけることを楽しみにしています。(2018年9月3日 長崎県松浦市牧師)
・私は現在神戸の老人ホームに住んでいます。子息の急死に遇い、途方に暮れていた時、あなたのことを知りました。息子は鹿児島大学、神戸大学の教授で退職しました。その若き時代、炭鉱のことに思いを込め、炭住やボタ山、廃坑などの写真を撮り、定年後は一冊の本にまとめたいと思っていたようです。それらの写真や新聞のスクラップブックが10冊ほどあります。この息子の思いを何とかせねばと、あなたのような人を探し求めていました。そんな息子の意志を汲んでいただき、それら資料を貰っていただけないでしょうか。老人故、だんだん字も荒れてきました。お許し下さい。(2018年11月30日 神戸市女性)
・電話で少し申しましたが、祖父は私が生後5ヶ月の時に亡くなっているので、記憶の中に無いのです。母が残している記録で、台湾の日月潭発電所、大甲渓発電所、立霧発電所の建設に関わったと知り、台湾へこの目で見ておきたいと思いました。立霧発電所は台湾の史実にあり、祖父の会社名が見つかりましたが、見学不可ということでした。コロナウィルス情報を見ながら台湾へ行きたいと思っています。(大阪府箕面市女性)
・私は緑ヶ丘社宅楓町60棟でした。前川さんの冊子の編集後記に懐かしい名前がありましたのでペンをとりました。「田中兼重さん」。父の友人で、人見知りだった私が唯一なついていたおじさんでした。炭塵爆発の数日前、我が家に遊びに来られ、一度帰られたのですがわざわざ戻って来られ、私にお小遣いをくださいました。私はその時小学1年生。爆発で亡くなられたと聞き、悲しい気持ちで一杯でした。息子さんは熊本市内にお住まいだとか。もし連絡がつくようならよろしくお伝えください。こうして56年以上経っていても、前川さんの「異風者からの通信」を通じてどこかでつながっているのだと思うと感慨深いです。(2020年1月16日 兵庫県姫路市女性)
続く