炭鉱以前=臺湾

写真左は日本人が設計建築した「台湾総督府」の写真絵はがき。父のアルバムにあった。1895(明治28)年建築。現在もそのまま台北市に建ち、使われている。


写真右の表面には「台湾台南榮村虎尾 サトウキビ農場内」と書き込みがあり、その裏面には「昭和15年3月?日 収穫記念」とある。父は「臺南州立農業國民学校嘉南塾」(修業年限1年)の昭和12年度卒業生。


写真左に写るのは両親と長兄。その写真裏には「昭和16年5月13日寫 政則二才、主人三十一才、私二十四才」とある。両親らは日本敗戦時まで「台南州虎尾郡虎尾街尾園」(現・雲林縣虎尾鎮埒内里尾園路)で暮らし、長兄と姉は同所で生まれた「湾生」。


写真右は香川県坂出市の母の実家にあった。
場所は「秋津國民学校」。現在の彰化縣芳苑郷文津村に建つ「草湖國民小学」の前身。2019年12月3日、私は同校を訪問。その時に見せてもらった「永久保存 紀念寫眞帖 草湖國民学校」と記した写真帖の中に、同じ写真があった。その前から二列目、右から三人目の少年が母の2番目の弟(当時12歳)。


写真左の裏には「昭和十一年 共同作業中」と書かれ、全員の名が記されてある。
台湾で取り寄せた戸籍謄本には「臺中州北斗郡沙山庄草湖、昭和拾壱年参月弐拾日寄留」とあり、現在の彰化縣芳苑郷文津村へ日本の香川県綾歌郡林田村から一家(10人)で開拓民として移り住んだ。その集合写真の右端に、私の母方祖父の名が記されてある。この時、母は18歳。間もなく、臺中市千歳町一丁目4番地の照山医院へ妹と二人、女中として働きに出た。なお、母の一番目の弟・常治郎は昭和18年臺中市旭町三丁目2番地において20歳で病死した。


写真右は、母方の伯父(祖父の弟)。台湾の警察官だった。「臺湾総督府警察職員録」(昭和9年版臺湾警察協会発行)の中に伯父の名前がある。伯父は警察官として「新化郡」「虎尾郡」「北港郡」(「臺南洲職員録」より)を歴任。この伯父の紹介で両親は結婚した。晩年、奈良県生駒市で死去。


 父は衛生兵として、台南陸軍病院、花蓮港陸軍病院(昭和19年)を転戦し、1945(昭和20)年7月現地除隊となる(厚生省軍歴資料)。
 1946(昭和21)年3月には、母方の香川県坂出市一家7人は海防艦「羽節丸」(483名乗船)により臺湾の基隆港を出港、鹿児島に上陸した(厚生省保存「引揚者名簿」)。
 一方、我が父方の楠元一家に関する引揚者名簿について厚生労働省に問い合わせたが「保管されていない」という回答。「全てが保存されている訳ではない」という。
 それに関して長兄に尋ねたことがある。それによると、父母は6歳になる長兄と0歳の姉を伴って福岡の港に上陸。貨物列車の石炭運搬車に揺られて、途切れ途切れの線路を時には歩きながら、父のふるさと鹿児島県出水市までたどり着いたという。臺湾引き揚げ時、臺湾人から石を投げられた日本人もいたが、「我が家は大丈夫だった」とも。
 そして1948(昭和23)年頃、父は「住む家と食う米」を求めて福岡県大牟田市にあった三池炭鉱へ働きに出たのである。しかし、それはまた苦難の始まりでもあった。


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