解脱塔 | 亡くなった囚人の菩提を弔うために建てられた供養塔 |
1.概要 |
年代:明治21(1888)年 現存遺構:
見学:自由に見学できる。 所在:大牟田市勝立。勝立工業団地緑地公園内。 |
2.現在残されている遺構 |
2.1 解脱塔正面には「解脱塔」と刻まれ、碑陰には「明治二十一年八月三池集治監吏員立之」とある。このあたりは、三池集治監の囚人埋葬地であったことから、亡くなった囚人の慰霊のために立てられた。 平成7年5月に修復除幕法要が営まれる。 |
2.2 囚人墓地保存会により立てられたもの地蔵菩薩像、合葬の碑、菊池常喜顕彰碑が、囚人墓地保存会により立てられた |
(2) 合葬の碑
平成8(1996)年12月に解脱塔のある三池集治監墓地跡地の公園化工事中に、積み重ねられた70数柱の遺骨が発見された。そこで囚人墓地保存会によって合葬之碑が新たに建立され、慰霊法要が行われた。
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(3) 地蔵菩薩像
解脱塔と合葬之碑に挟まれて立てられている地蔵菩薩像の下には、かつてコンクリートの蓋がされた竪穴があった。ここに囚人の遺体を捨てたとか、仮埋葬された遺骨を入れたとも伝えられていた。公園化工事中に遺骨が発見された場所が、竪穴であるのかは不祥。 本吉らは次のような証言を収録している。大正のころ勝立社宅を建てるために解脱塔の立つ丘を削ると、そこから人骨が大量に発見されたため、解脱塔前に竪穴を掘り、そこに白骨を投げ入れたという。 「たしか私が大牟田に住みついたのは、大正九年じゃったように思うが、その翌る年のことじゃった。『解脱塔』があろうがの。あのすぐ下一面に社宅を建てるというので、その頃請負の仕事に働いていた私どもが寄ってたかって、山を切り拓くことになったとたんも。 |
3.解脱塔についての詳細 |
3.1 囚人の埋葬の制度現在、刑務所での服役者が亡くなった場合の対処は、監獄法で次のように定められている。まず在監者が亡くなった場合、仮葬すること。必要であれば火葬することができること。その2年後に合葬することができること。最後の合葬の規定は、それまでに引き取り手がなかった場合の措置であろう。 第七十三条 在監者死亡シタルトキハ之ヲ仮葬ス この合葬の規定が最初に定められたのは、明治22(1889)年7月17日に改正された監獄則が最初である。満三年たっても遺体や遺骨の引き取り手がなければ、合葬することができること、その場合の墓標は石を用いることが定められた。 仮葬シタル死亡者刑死者ノ遺骸ニシテ、滿三箇年ニ至ルモ引取人ナキトキハ、更ニ合葬スル事ヲ得。合葬シタルトキハ其墓標ニ石ヲ用ユベシ 勝立の解脱塔が建てられたのは、この監獄則改正の前年である明治21(1888)年のことである。そのため「合葬碑」ではなく、仏教的な「解脱塔」という名称が用いられ、公金ではなく「三池集治監吏員」による拠出金によって建てられたと考えられている。(『三池集治監物語』p.19) なお仮埋葬にあたって、セメント樽に囚人の遺骸を入れて埋葬していたという、大正頃の証言も残されている。(「三池炭鉱の囚人労働」pp.81-62) 3.2 勝立の解脱塔以外の囚人慰霊碑(1) 福岡県監獄合葬碑(順照寺境内) 順照寺の境内に、明治25(1892)年に建立された「合葬碑」が安置されている。明治22(1889)年に閉鎖された福岡県元三池監獄が建てたもので、それまで龍湖瀬墓地に仮埋葬されていた囚人の遺骨を合葬したものである。福岡県監獄は明治17(1884)年に龍湖瀬坑の土地を購入し、仮埋葬を行っていたされる。 (2) 三池刑務所合葬之碑(熊本刑務所廟地内) 『三池集治監物語』によると、明治24(1891)年、明治28(1895)年、明治31(1898)年に集治監が「合葬之墓」「合葬之碑」を立てた記録が、熊本刑務所に残されているという。そしてこれらは、昭和9(1934)年3月、熊本刑務所廟地に立てられた「三池刑務所合葬之碑」に合葬されたと推定している。(p.20) |
参考文献 |
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