「倶會一處(くえいっしょ)」の碑 | 三井鉱山が建立した"囚徒墓"とも伝えられる墓碑 |
1.概要 |
年代:大正10(1921)年 現存遺構:「倶會一處」の碑 見学:自由に見学できるが、場所が分かりにくい。 所在:大牟田市米生町1丁目。
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2.現在残されている遺構 |
3.「倶會一處」の碑についての詳細 |
3.1 倶會一處碑に記されている「倶會一處」とは「倶(とも)に一つ処(ところ)に会う」という意味である。ただし仏教では「極楽浄土に往生して人びとと一カ所に集う」という意味で使われている言葉で、浄土教の根本聖典である浄土三部経の一つである阿弥陀経に典拠がある。現在、浄土真宗系の墓や共同墓に刻まれていることが多いようである。なお阿弥陀経には次のように書かれている。 「舎利弗 衆生聞者 応当発願 願生彼国 所以者何 得与如是 諸上善人 倶會一處」 3.2 福寿院(福寿寺)倶會一處の碑は、権現山頂上にある福寿院の境内から北に少し降りた場所にある。『大牟田市史』によると、福寿院の宗派は真言宗高野派、本尊は十一面観音という。もともと岡山県邑久郡大宮村大字千手(現在の岡山市千手、瀬戸内市牛窓町千手(Mapfan))にあったものを、大正10(1921)年3月7日に移したという。(『大牟田市史』補巻 p.126) 倶會一處の碑には、大正10(1921)年3月31日の日付があった。福寿院が移転したとされる同年3月7日と時期が近いことから、この両者には何らかの関係があったのであろう。 この地に寺院を開き住職となった人物は、津守密玄という。しかし彼は生前、繁村順次郎という名で知られていた。刑期を終えて世に出た三池集治監の放免囚であったという。「三池炭鉱の囚人労働」には、繁村順次郎について郷土史家小柳与三郎の次のような述懐が紹介されている(p.82)。 「立派なお坊さんでした。この人に導きを受けて僧となり、お寺を開いた放免囚の人はほかにもいました。自分が罪人だということから、親兄弟ばかりでなく、親類縁者にまでも迷惑をかけるようなことでもあったら、とそればっかりを恐れて、仮の名を使っていたのに違いありません。本当の姓は津守だったのですね」 |
3.3 権現山倶會一處の碑が残されている丘は権現山と呼ばれ、頂上には福寿院に隣接して権現社が祀られている。宮原坑の東に位置し、福寿院に登る道からは宮原坑の櫓を眺めることができる。 丘には現在も墓碑が散在しており、山裾の道路からもいくつか見ることができる。この丘は元来旧駛馬村の共同墓地であったのだろうか。なお、坑内で使役された馬匹もこの丘に埋葬されたと伝えられている。 |
参考文献 |
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