三池集治監(しゅうじかん)跡 |
福岡県指定有形文化財(建造物)(平成8(1996)年指定) 三池炭鉱の労働を支えた囚人の収容施設の跡 |
1.概要 |
年代:明治16(1883)年〜昭和6(1931)年。 現存遺構:レンガ造の外塀、石垣 見学:現在は三池工業高校の敷地。外から見るだけであれば自由に見学できる。敷地内に入る場合は、高校の事務室で受付けている。 所在:大牟田市上官町4丁目77 |
2.現在残されている遺構 |
三池集治監外塀および石垣 集治監とは地方監獄とは別に、国が管理する重刑者を収容するための監獄施設で、三池集治監は明治16(1883)年に設置された。西日本では三池にのみ設置され、当初西日本各県の監獄より刑期12年以上の囚徒が集められた。三池に集治監が設置されたのは、当時国が管理していた三池炭鉱での安定的な労働力を確保するためである。2000人の囚人が収容され、主に三池炭鉱での採炭作業に従事していた。
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(1) レンガ塀
三池工業高校の敷地、東側と西側にレンガ造の外塀が残されている。高さ約5m、幅約50cm〜1m。イギリス積み。表面にモルタルが塗られているが、これは戦後になされたものだという。西側の塀には、アーチ状の非常口の跡も残っている。
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(2) 石垣
敷地北東側に残る石垣も集治監時代に積まれたものである。これには地元で産出される通称「七浦石」(砂岩)が使用された。 |
(3) 説明板
三池工業高校の敷地内西端に立てられており、次のように書かれている。(>>説明板写真)
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3.三池集治監についての詳細 |
3.1 沿革(1) 三池集治監から三池刑務所
(2) 三井工業学校移転以後
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3.2 囚人労働 |
3.3 監獄制度の変遷江戸時代の刑罰の中心は追放刑であったが、明治になると近代的自由刑が採用されることになった。自由刑とは犯罪者の社会生活の自由を奪う刑罰である。自由刑の考え方として、犯罪者を監獄に拘禁することには、犯罪者を社会生活から隔離することで社会を防衛するという意味があり、また監獄ではなんらかの作業を強制させるが、それには作業を通じて犯罪者を教育・改善するという意味があるとされている。 この近代的自由刑を採用するためには、前近代には存在しなかった長期の収監施設が必要となる。そのために作られた施設の一つが集治監である。集治監は内務省直轄の刑事施設として、府県の管轄する監獄とは別に設置され、長期刑の国事犯、政治犯が収監された。明治14(1881)年制定の第一次監獄則では、「徒刑・流刑・禁獄の刑に処せられた者を〈集治スルノ所〉と定められ」ている。 明治36(1903)年に地方監獄も含め全監獄が司法省直轄となり、集治監も監獄に改称された。 略年表
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3.4 三池以外の集治監最初に設置された集治監は、中央監獄として位置付けられた東京小菅と宮城である。 その後は、明治16(1883)年設置の三池集治監以外、全て北海道に建設された。これは重罪流刑者を集禁すると言う目的の他に、囚人を北海道開拓にあたらせるという国策に沿ったものである。そのため三池集治監の囚人が三池炭鉱の採炭に使役されたように、北海道各地に建設された集治監の囚人も、主にそれぞれの地域の農業開拓や道路建設などに使役された。 北海道の集治監のうち囚人が採炭に使役されたのは、幌内炭鉱に隣接する空知集治監だけである。しかし、この幌内炭鉱での囚人労働も明治27(1894)年に廃止されている。 なお北海道の集治監は、明治19(1886)年の北海道庁設置に伴って一旦内務省から北海道庁に移管されたが、明治28(1895)年には再度内務省に移管されている。 (1) 東京集治監・宮城集治監
(2) 樺戸集治監
(3) 空知集治監
(4) 釧路集治監(標茶集治監)
(5) 北海道集治監網走分監
(6) 北海道集治監十勝分監
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参考文献 |
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