宮浦坑跡

国登録文化財(煙突:平成10(1998)年登録)
赤レンガの煙突と斜坑のプラットホームが残る炭坑跡

1.概要

年代:明治20(1887)年〜昭和43(1968)年。大正12(1923)年に開坑した長さ1kmの大斜坑によって再生した。

現存遺構と展示物
・第一竪坑関連施設(坑口跡、煙突)
・大斜坑関連施設(坑口跡、プラットホーム、材料降下坑口跡)
・坑内機械(ドリルジャンボ、フェースローダー、サイドダンプローダー)

見学:宮浦石炭記念公園として整備されており、自由に見学することができる。

所在大牟田市西宮浦町132-8


2.現在残されている遺構

 かつての宮浦坑の一画が、宮浦石炭公園として整備されている。面積は0.47ha。平成8(1996)年11月に開園した。
 ここには明治21(1888)年3月に建造された赤レンガ煙突と、大正12(1923)年に開坑した大斜坑の坑口跡・プラットホームが残されている。また実際に使われていた人車や、坑内で使用された機械も展示されている。
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2.1 第一竪坑関連施設

 

 第一竪坑は、揚炭・入気・人員昇降用に用いられた。開坑は明治20(1887)年8月、閉坑は昭和22(1947)年である。現在、赤レンガ煙突を1本残して、関連施設は全て失われている。ただしかつての坑口跡に、モニュメントが設置されている。
 なお当初は七浦第三斜坑から排気されていたため、排気用の第二坑は長く作られなかった。


(1) 坑口跡

 揚炭・入気・人員昇降を目的とした竪坑口の跡で、坑口の場所と大きさを示すモニュメントが置かれている。
 かつては昇降機を吊り下げるための櫓があったが現存しない。櫓は宮原坑や万田坑と異なり、鋼製ではなく木製。高さも10mと小規模であった。竪坑の深さは53.5m。昇降機は蒸気動力で運転されていた。

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坑口跡

(2) 煙突

 この煙突は、竪坑捲揚機の動力源であったボイラーの排煙に使われていたものである。かつて宮浦坑には赤レンガの煙突は3本あったとされるが、現在はそのうちの一本だけが修復保存されている。宮原坑や万田坑など明治時代の坑口には、蒸気機関が用いられていたために、いずれもレンガの煙突が立っていた。しかし三池炭鉱で現存するのはここだけである*

 竣工は明治21(1888)年3月。高さ31.2m、直径2.9〜4.3m。耐火赤レンガ約138,000枚が使用されている。平成10(1998)年に、国登録文化財(建造物)に指定された。

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* 現存する類似の煙突としては、田川市の三井田川鉱業所の大煙突があり、田川市石炭資料館敷地に保存されている。明治41(1908)年竣工。高さ45.45m。

煙突

2.2 大斜坑関連施設

 

 明治36(1903)年ころ、落差180mの断層にあたり採掘が困難になっていた。そこで断層を克服し、直接新たな区域に通じる坑口として開鑿されたのが、この大斜坑である。大正12(1923)年から開鑿を開始し、大正12(1923)年に貫通。大正13(1924)年から揚炭が開始された。

 昭和43(1968)年12月坑口閉鎖


(1) 坑口跡

 斜坑の長さは1,020m、深さ180m。坑口の大きさは幅5.61、高さ2.12m。
 現在、坑口は封鎖されている。

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坑口跡

(2) プラットホームと人車

 実際に使用されていた昇降用の人車が展示されており、救急車、特定車、負傷車、普通車、車掌車を見ることができる。

 これらの人車は捲揚機のワイヤーロープによって動かされていた。所要時間は5〜6分であったという。

人車

(3) 材料降下坑口跡と貨車

 ここから石炭を採掘するための材料を運んでいたという。坑口は閉鎖され、坑口から延びたレール上には、工具車・材木車・タンク車が展示されている。

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材料降下坑口跡

2.3 坑内機械

 

 以下の機械が展示されている。名称と説明は設置された説明板に基づく。

・ドリルジャンボ:坑道を掘る途中に岩がでてきたとき、岩をくだく為に、ダイナマイトをしかける穴を掘る機械。
・フェースローダ:石炭の層に沿って坑道を掘るとき、ダイナマイトでくだいた石炭を、かき寄せコンベアーに積込む機械。
・サイドダンプローダ:坑道を掘るときに出た土や岩を、積込む機械。バケットが横に回転する。


ドリルジャンボ
ドリルジャンボ
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フェースローダ
フェースローダ
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サイドダンプローダ
サイドダンプローダ
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3.宮浦坑についての詳細

3.1 宮浦坑の開坑

 七浦坑の空気流通と採炭予備のため、明治20(1887)年2月6日開削より宮浦坑の開鑿が始められた。明治20(1887)年8月17日に着炭、明治21(1888)年3月に竣工、明治21(1888)年4月より操業が開始される。
 排気は七浦坑の第三斜坑から行い、排水も当初は七浦坑、後に宮原坑で行うなど、揚炭と人員の昇降に限定した炭坑であった。

3.2 大斜坑の開坑

 炭層に沿って西南方向に採掘して行ったが、明治36(1903)年ころ落差180mの断層に突き当たった。当初、断層を越えた先には炭層がないのではないか、と危ぶまれていた。

 しかしボーリング調査の結果、それまで採掘していた本層(厚さ2.9-5.5m)が確認され、更にはこれに匹敵する上層(2.5-5.15m)の存在も確認された。そこで明治45(1912)年に、断層の先に向けての掘進が開始されることになる。大正2(1913)年に上層に着炭、大正5(1916)年に本層に着炭した。

 けれどもこの新しい区域も坑道の延長によって、輸送限界を越えてしまった。そのため、直接新しい区域に通じる坑口を開鑿することとなった。これが大斜坑である。

 大正12(1923)年3月5日に開鑿着手。大正12(1923)年11月9日に貫通し、大正13(1924)年9月12日より揚炭が開始された。エンドレスロープの設置による揚炭の効率化と、揚炭の集約もあって大斜坑の出炭は増加し、万田坑、四ツ山坑に並ぶ主力坑として再生した。

3.3 三川坑炭塵爆発事故

 三川坑炭塵爆発事故での死体はこの宮浦坑の坑口から上げられた。その後、原山町の三井三池炭鉱本社の講堂に移送収容されたという。

宮浦坑に関するデータ
 第一竪坑第二竪坑大斜坑
役割揚炭・入気・人員昇降排気揚炭・入気・人員昇降
開坑 明治20(1887)年2月6日開削着手
明治20(1887)年8月17日着炭
明治21(1888)年3月竣工
明治21(1888)年4月操業開始
大正8(1919)年4月6日、開削着手
大正8(1919)年6月2日着炭
大正12(1923)年3月5日開鑿着手
大正12(1923)年11月9日貫通
大正13(1924)年9月12日揚炭開始
閉坑 昭和22(1947)年8月23日閉坑 昭和26(1951)年12月閉坑 昭和43(1968)年12月坑口閉鎖
昭和44(1969)年1月4日三川坑と統合。
昭和44(1969)年5月25日終鉱式。
深長53.5m54.5m(長さ1,020m)
排気(当初七浦第三斜坑より排気)大正8(1919)年7月シロツコ式扇風機を七浦三坑口より移転設置(昭和23(1948)年からは南新開通気坑より排気)
坑形5.49×3.66m直径4.55m5.61×2.12m
参考文献
  • 児玉清臣(2000)『石炭の技術史 摘録』上巻p.201
  • 新藤東洋男(2000)『大牟田の歴史散歩物語−大牟田近現代史を中心に−』下巻,pp.7-8
  • 『大牟田の歴史散歩物語』下巻, p.31
  • 高野江基太郎(1908)『日本炭坑誌』pp.194-229
  • 本木栄(1939)「三池炭坑誌」『大牟田市史』pp.374-402
  • 津村光仁(2002)「宮浦石炭記念公園」『大牟田の宝物100選』p.39
  • 三井鉱山株式会社(1990)『男たちの世紀−三井鉱山の百年』pp.115-116
  • 『大牟田市史』中巻,pp.420-421, 519-524, 618-621, 842-844
  • 西日本文化協会編(1982)『福岡県史 近代史料編 三池鉱山年報』

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