大浦坑跡


三池炭鉱で最初の近代炭坑の跡

1.概要

年代:安政4(1857)年〜大正15(1926)年。官営化後、初めて近代技術によって開かれた炭坑。

現存遺構:第一斜坑坑口跡

見学:廃棄物最終処分場の敷地内であるため、見学は難しい。

所在:大牟田市大浦町


2.現在残されている遺構

第一斜坑坑口跡

 廃棄物最終処分場擁壁の向かって右下に、コンクリートで封鎖された坑口の跡を確認することができる。
 江戸時代末期に開坑されていた坑口に隣接して、明治11(1877)年に開坑された。揚炭、吸気を目的とする坑口で、揚炭のために鉄道が複線で引かれた。坑口は上部がアーチ状でカマボコ型の形で、その大きさは幅約3.3m、高さ約1.8m、深長は364mであった。閉坑は大正15(1926)年。
 なお第二次大戦後、昭和21(1946)年から昭和31(1956)年までの間、再度採炭されている。

第一斜坑坑口跡

3.大浦坑についての詳細

3.1 大浦坑遺址

 大浦坑は大正15(1926)年2月に閉坑したが、これを記念して團琢磨の手による碑が残された。現在この碑は、三井港倶楽部の敷地内に移築保存されている。港倶楽部を訪れると、正門を入って右手、駐車場を過ぎた辺りの木陰に、レンガの積まれたカマボコ型の碑を見ることができる。

 碑文には次の様に記されている。これを読むと、大浦坑の官営化以来の歴史を知ることができる。
 ただし新字新かな新かな使いに直し、適宜漢字をかなに替え、句読点を振った。また年号には省略されていた箇所も含めて全てに元号を振り、西暦を添え、年号ごとに改行した。
大浦坑遺址

大正十五年二月
團琢磨題
 この坑、明治6(1873)年三池炭山官営当初の開坑にかかり、
明治22(1889)年三井家これを継承す。始めもっぱら人力によりしが、
明治9(1876)年坑底に炉を設けて通風を計り、
明治11(1878)年汽力曳揚機を備え、
明治20(1887)年蒸汽喞筒(ポンプ)をもって人力水車馬力喞筒に代え、
明治23(1890)年更に七浦に通ずる疏水道を開き、
明治34(1901)年電力の応用に進み、
明治35(1902)年盤下炭の採掘を始め、
明治39(1906)年別に第二坑を開いて旧坑の残址を採掘し、出炭総計七百余万トン。
大正15(1926)年2月廃址す。汽車曳揚機の礎石、および明治十四年煉瓦をもって築造せし油小屋等なお存ず。
 用いてこの碑を遺[おく]り記念となす。

後年、團琢磨の孫の團伊玖磨がこの碑文を見て、「海外で若い頃を過ごした祖父がこんなに達筆なわけが ない」と言ったという噂がある。

3.2 明治11(1878)年の大浦坑近代化

 明治6(1873)年に官収された後も、当初はそれまでの坑口を利用していた。ポッターの助言に基づいて、三池炭坑の近代化のために大浦坑を採炭の中心に据える方針がだされた。

 そこで明治11(1878)年、旧坑に平行して新たに斜坑を開鑿し、合わせて蒸気動力の機械を導入した。この結果、主に運炭の効率が上昇し、出炭量の増加を見た。このとき近代化された大浦坑の様子は、明治12年に刊行された『筑後地誌略』の挿絵に見ることができる。
「稻荷村大浦炭坑山之図」『筑後地誌略 全』(p.42)

 「三池鉱山年報」によると、次の様な設備投資がなされている。(「第六次年報」(前表諸工事結構ノ大意、工程ノ景況)『三池鉱山年報』pp.121-124)

  • 新坑道。幅2間、全長400間、1/5傾斜。明治9(1876)年12月開鑿開始。明治11年3月竣工
  • 曳導機関(ボーリングインジン:石炭車を昇降させる機関)。明治11年6月運転開始。なお明治23(1890)年2月12日エンドレスロープに改造された(市史p.510)。
  • 坑外機関(曳導機関に蒸気を与える機関。ボイラー)。
  • 烟筒(煙突)。高さ75尺(約25m)、方形、レンガ造。
  • 坑外鉄道。坑外車道及自転車、複線の馬車鉄道(大浦坑−大牟田河畔:24丁36間)坂道に自動車(セルファクチンクドラム)、明治11年2月5日落成。
  • 坑内汽罐・ポンプ及火炉。長崎工作分局製造のボイラー四基、4月3日落成。スペシャルポンプ2組、排気用の火炉など5月25日竣工。
  • 横須浜石炭搭載場。明治11年6月竣工。

3.3 その後の大浦坑

 明治16(1883)年に七浦坑が開坑すると、主力の座は七浦坑に譲ることになった。また各種の機能が七浦坑に集約されている。
 まず明治23(1890)年、疏水道を七浦まで開鑿し、これ以後、大浦坑の排水は七浦坑が受持つことになる。
 明治32(1899)年4月、大浦坑から七浦坑へ運炭する坑外エンドレスロープ機が完成した(市史p.520)。同時に、大浦坑から横須浜までの馬車鉄道が廃止された。これによって、大浦坑で採掘された石炭の選炭作業は七浦坑で行うことになる。
 なおこのエンドレスロープは、明治34(1901)年6月2日蒸気動力から電気動力に変更された(市史p.520)。さらに大正6(1917)年8月からは、電気機関車による運転に変更された。

 明治35(1902)年2月14日、盤下層の採掘を開始した(市史p.521)。更に、明治39(1906)年には第二坑を開坑している。

 しかし、明治後期から大正にかけて新鋭炭坑が新たに開鑿され、比較的非効率となった大浦坑は閉鎖されることになる。まず大正14(1925)年11月に第二坑の採掘が中止され、続いて大正15(1926)年2月7日、第一坑の採掘を中止された。2月9日には閉坑式が挙行され、三池で最初の近代炭坑であった大浦坑は閉坑した。


大浦坑に関するデータ
 旧坑第一斜坑第二斜坑
役割*1*2元は揚炭。
後に人道、排気
揚炭・吸気揚炭・吸気
開坑*1*2*3*9安政2(1854)年開鑿
安政4(1857)年落成
明治5(1872)年廃抗
明治6(1873)年7月再開坑
明治9(1876)年9月12日起工
明治10(1877)年8月28日着炭
明治11(1878)年3月竣工
明治11(1878)年8月操業開始
明治38(1905)年6月1日起工
明治39(1906)年1月20日着炭
明治39(1906)年10月開坑
明治40(1907)年4月11日操業開始
閉坑*4大正15(1926)年2月7日採掘中止大正14(1925)年11月採掘中止
大正15(1926)年2月9日閉坑式
昭和21(1946)年2月10日再開坑
昭和31(1956)年1月6日再閉坑
深長*1364m
坑形*1*23.03×1.82m3.03×1.82m
排気*5*8チャンピオン式電気煽風機
明治35(1902)年8月5日
運転開始
三ッ山竪坑の下に排気用通風爐を設置していたが、旧坑の扇風機設置に伴い廃止。
排水*6*7
明治23(1890)年に疏水道を七浦まで開鑿し、これ以後は七浦坑より排水
*1 田中(1982)p.(33) *2 『三池炭礦案内』p.9 *3 『三池炭礦案内』は第一坑の開坑を明治6(1873)年7月としている。これは高野江(1908)p.199を引き写したものである。明治6年7月とは工部省鉱山寮による経営が始まった時点であるから、鉱山寮が旧坑を採炭開始した年月を示したものであり、新斜坑と混同したのであろう。*4 『大牟田市史』中巻p.619, p.915。田中(1982)p.(33)は大正13年2月廃抗としている。 *5 高野江(1908)p.204 *6 同掲書p.201 *7 本木(1939)p.369 *8『大牟田市史』中巻p.521 *9 『大牟田市史』中巻p.431 
参考文献
  • 梅野多喜蔵、三谷有信(1879)『筑後地誌略 全』
  • 児玉清臣(2000)『石炭の技術史摘録』上巻, pp.141-146
  • 高野江基太郎(1908)『日本炭坑誌』pp.194-229
  • 田中直樹(1982)「解題」『福岡県史 近代資料編 三池鉱山年報』pp.(19)-(50)
  • 本木栄(1939)「三池炭坑誌」『大牟田市史』pp.372-402
  • 三井鉱山株式会社発行(1990)『男たちの世紀−三井鉱山の百年』
  • 「三池鉱山年報」(1873-1889)、財団法人西日本文化協会編纂(1982)『福岡県史 近代資料編 三池鉱山年報』所収
  • 『三池炭礦案内』(1914)

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