江戸時代の三池炭鉱

1.三池炭山の発見

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1.1 伝治左衛門による石炭発見の伝承

 三池で初めて石炭が発見されたのは、文明元(1469)年の1月15日のこととされている。伝承によると、三池郡稲荷村(とうかむら)の農夫である伝治左衛門1)夫婦が、薪を拾いに出かけた稲荷山(とうかやま)において、焚き火をしている折に石炭を発見したという。この伝承が正しければ、国内で最も早く石炭が発見されたのは三池の地ということになる。
 ただしこの話が採録された最も古い文献でも安政6(1859)年のものにすぎない。そのためこの伝治左衛門による石炭発見の伝承がどの程度事実を伝えているものなのか分からない。

三池石炭発見伝説図
図1-1 「三池石炭発見伝説図」
加藤丹丘2), 昭和16(1941)年頃
石炭発見の伝承
 三池郡稲荷村に農夫の伝治左衛門夫婦がいたという。元々家柄は悪くなく、実直な性格であったが落ちぶれて貧しい生活をおくっていたらしい。日々必要な薪にすら不自由するほどになったので、夫婦で稲荷山に枯枝を拾いに登っていたという。
 寒くなったので山の頂の岩が突き出たところで、枯葉を集めて火を焚いた。すると岩がトロトロと燃えだした。これを見て夫婦は運が開けてきたと喜び、しばらく天を拝み、地を拝んだという。
 この日は急いで家に帰り、お神酒を供え、近隣の人を招き、事の次第を話した。これを聞いた人々はとても不思議なことだと驚いて、「このような事は今まで聞いたことが無い。このような幸福は、貴方に高徳があったからだ。末代まで名を遺すこと疑いない。本当に類い稀なることだ」と云ったという。
(石炭山由来記3); 明治六年三池鉱山年報4)より)
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1.2 石炭発見の地はどこか

 伝承によると伝治左衛門夫婦は稲荷山で石炭を見つけたという。しかし、国土地理院の地形図を見ても、稲荷山という地名は見当たらない。ただし大牟田市内には稲荷町(とうかまち)という町名はある。しかし現在の稲荷町には頂きをもつ「山」と呼べるような地形は全くない。既に切り崩された小山でも、かつてはあったのだろうか。

 実は現在の稲荷町は大正8(1919)年にできた新しい地名である。その時に廃止された大牟田市の大字名の一つにも稲荷がある。旧大字稲荷は、現在の稲荷町の外に鳥塚、竜湖瀬、大浦、八尻、柿園を含んでいる。またこれは江戸時代の稲荷村の領域でもある。

 恐らく稲荷山とは、かつての稲荷村の山(あるいは集落から見える山)全体という程のことではなかろうか。伝承によると伝治左衛門は石炭を山の頂きで発見したということなので、石炭発見の地は幾つかある頂きのどれかなのであろう5)

 しかし現在それらの山は工場敷地内にあるなどして、登ることは難しい。残念ながら、今の所はあれこれと想像しながら、遠くから眺めるほかなさそうである。
 

稲荷山位置図
図1-2 稲荷山位置図

稲荷山写真
写真1-1 鳥塚町鳥塚公園(熊野神社隣)より「稲荷山」を撮影
三池石炭発見の地碑
写真1-2 三池石炭発見の地碑
(三池時報,昭和40年1月号,p.25)
 「三池石炭発見の地」と書かれた碑の写る左の写真は、昭和40(1965)年発行の「三池時報」に掲載されていた。「三池時報」は三井三池炭鉱の社内報であり、大牟田市立図書館へ行けば、自由に見ることができる。
 写真のように碑が立てられているということは、三井鉱山も何らかの根拠があったのだろう。ただしこれがどこなのか、三池時報には書かれていない。そのためこの碑がどこに立っていたのかは推測するほか無い。
 碑の左手に写っているのは、三井化学J工場と思われる。水平線がJ工場を横切っているので、撮影場所の標高は高さが47mあるJ工場よりも低いことになる。更に、工場まで障害物がないことと、工場の向きから考えると、撮影場所は下の地図中の標高33.3mの丘がもっとも確かなように思われる。
 ただし前述のように立入ることが難しいため、現在もこの碑が立っているかどうか、確認はしていない。
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1.3 他地域には、どんな石炭発見の伝承があるか

 明治以前から採掘されていた炭鉱は各地にある。そのうち江戸時代の初期から石炭が知られていたのは、三池のほか、筑豊、舟木(宇部)、高島がある。これらの地域には、石炭発見についてどのような伝承が残っているのだろうか。

(1) 筑豊炭田(福岡県)

 筑豊でも江戸時代より前に石炭が発見されたという伝承が残っている。

 伝治左衛門が石炭を発見して9年後の文明10(1478)年に、遠賀郡香月村の畑という集落にある金剛山で黒い石が掘り出され、薪の代りに用いたということが、元禄元(1688)年に書かれた「香月世譜」に記されている6)
 遠賀郡香月村の畑とは、現在の北九州市八幡西区畑にあたり、金剛山は直方市との市境にある標高562mの山である。

 時代が下るが、天正15年(1587年)に田川の香春一ノ岳にあった香春城で合戦があり、落城時に落ち延びた村上信義が、現在の田川市内の石場に潜伏中していたおり、黒い石でかまどを組んで炊さんしたところその石が燃えたという。(「日本石炭讀本」所収7))なお石場という地名は大字伊田の中にバス停の名前として確認できる。

 また遠賀鞍手石炭山の伝説によると、遠賀郡垣生村の五郎太が火糞(やきごえ)をしていると、傍らの石に燃え移ったことで、「燃ゆる石」を発見したという。(「福岡藩民政誌略」所収8))なお遠賀郡垣生村とは、現在の中間市大字垣生にあたる(mapfan)。
 ただしこの伝承は何時頃のことなのか詳らかではない。

(2) 宇部炭田(山口県)

 三池や筑豊に比べると、石炭が発見されたとする年代は新しい。いずれも江戸時代に入ってからの事である。

 伝承によると、有帆村大休(現小野田市大字有帆)の五平太が井戸を掘っていた時に出た土塊が、焚き火で燃え始めたという。(「宇部小野田厚狭歴史物語」所収9))ただし何時ごろのことなのか不詳である。

 正保4(1647)年に出された「毛吹草」という俳諧書によると、舟木(現厚狭郡楠町大字舟木)では石炭が薪の代りや灯に用いられていることが記されている10)。したがって、石炭の発見はこれ以前の事になるはずである。

  

(3) 高島(長崎県)

 宇部炭田に比べると、更に時代は新しい。

 元禄8(1695)年、長崎港外の高島で、五平太という平戸の領民が、海岸で魚を焼き石が燃えるのを知ったのが、高島炭鉱の発見とされる。(「石炭史話」より11)

(4) その他

 その他の地域には、炭鉱の起源に関しての伝承があるのか不詳である。三池、筑豊、宇部、高島を除く、江戸時代に発見された日本各地の主な炭鉱を、参考までにあげておく。(「大牟田市史」を参考12)

  • 唐津炭田 享保年間(1716-1735)  
  • 水巻(筑豊) 宝暦年間(1751〜1761)  
  • 松島(西彼杵) 天明元(1783)年  
  • 北海道釧路 寛政11年(1799)  
  • 粕屋炭田 天保12年(1841)  
  • 茨城炭田 嘉永6年(1853)  
  • 磐城炭田 安政4年(1857)

(5) なぜ五平太なのか

 石炭の発見に関連して、しばしば五平太という名がでてくる(遠賀郡垣生村では五郎太)。しかも五平太という名は石炭の異称として用いられ、その範囲は九州から大坂にまで及んだという13)

 それにしても石炭の発見に五平太という人物ばかり関わるというのは、偶然にしてはその頻度が高すぎる。どうしてこのようなことが起きたのだろうか。五平太が石炭の異称として広く知られるようになってから、各地の石炭発見伝承の主人公がいずれも五平太と名付けられるようになった、と考えるのがむしろ自然であろう。

 一説には、実際に石炭を発見した五平太は一人であるという。つまりある地方で発見者の名をとって石炭が五平太と呼ばれるようになり、それが各地に伝搬したという。

 これに対し「石炭讀本」では、そもそも五平太なる人物はいないという。五平太という名の由来を、遠賀川で石炭を運んでいた平太(ひらた)と呼ばれた小舟の名前に求めている。藩のために用いられた御平太がゴヘイタと呼ばれるようになり、後には石炭そのものも五平太と呼ばれたという14)

 石炭の異称である五平太が発見者に由来しているというよりも、ゴヘイタという不思議な語感が発見者伝説を生んだとしたほうが、納得がいく説明だと思われる。ところで、これほど広く使われたこの用語が三池に伝わらなかったことは、非常に興味深い。一体どうしてなのだろうか。

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1.4 なぜ文明元(1469)年なのか

 石炭の発見が文明元(1469)年と伝えられているが、これは何故なのだろうか。というのも焚き火が露頭の石炭に燃え移るといった偶然は、別に伝治左衛門以前にあってもおかしくないからである。伝治左衛門以前に石炭を発見したという伝承がないということは、それ以前に露頭のある「山の頂」で火を焚くことがなかったのか、石炭が重要なものであるという認識がなかったのかどちらかであろう15)

 そこで考えられるのは、石炭を見つけることが御神酒を供え喜ぶに値するくらい、当時は燃料資源が不足しだしていたということである。「山の頂」まで登っていたのは、そこまで行かなくては十分に枯枝も拾えなかったということであろう。更に、石炭発見の伝承を永く言い伝え続けたのだから、伝治左衛門が発見した後も、恒常的に石炭を使い続けたということであろう。

 それでは本当に、文明元(1469)年頃は燃料が不足しだしていたのだろうか。当時燃料が不足し始めたと考えられる要因の一つとして、15世紀後半から16世紀にかけての気候の寒冷化がある。その結果、当時は長雨を中心とする災害が頻発し、飢饉が頻発していたという16)。燃料資源に対する需用も増加したであろうし、木々の生育も抑制されたのではないだろうか。

 加えて伝治左衛門が石炭を発見したという文明元(1469)年頃は、戦乱の時代である。都では応仁の乱の最中であり、筑後地方でもその前後は豊後(現在の大分県)の大友氏と肥後(現在の熊本県)の菊池氏が筑後国守護職を巡って争っていた17)。そして当時の一揆や戦乱では、あらゆる略奪が行われていたとされ、略奪には竹木も伐採されたという18)。これは百姓の利用する薪が不足していたことを反映したものであろうし、略奪行為が不足に拍車をかけたことは容易に想像できる。

 ともあれ現在では木々がうっそうと茂っているために想像しにくいことであるが、山の頂きにまで枯れ枝を拾いに行かなければならない程、山に木々が少なかった。こういう時代背景があったからこそ、伝治左衛門の石炭発見があったのだと思い致すことも必要だろう。


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