三池炭山創業碑 |
官営時代の三池炭鉱の歴史が記された石碑 |
1.概要 |
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年代:大正5(1926)年 設置物:「三池炭山創業碑」 見学:笹林公園の東端にあり、自由に見ることができる。 所在:大牟田市笹林町 |
2.現在残されている遺構 |
「三池炭山創業碑」笹林公園の東側の一画に、忠魂碑、所謂爆発赤痢の慰霊塔と並んで、三池炭山創業碑が立てられている。碑の右側面には、官営時代を中心に三井による経営が始まる以前の三池炭鉱の歴史が、年代順に簡潔に書かれている。大正6(1927)年5月31日に除幕式が行われた。大牟田市制施行にあわせて行われたもようで、6月1日には市制施行の祝典が行われている。市制施行は3月。 |
(1) 碑文(正面)
碑の正面には「三池炭山創業碑」と大きく書かれている。これを揮毫したのは侯爵松方正義である。松方は、三池炭鉱が三井へ払い下げられた明治21(1888)年に、それまで三池炭鉱を所管していた大蔵大臣であった。 | ![]() |
(3) 碑文(裏面)
碑の裏面に「三池炭山創業当事者」として、三人の名前が刻まれている。一人は松方正義であり、後の二人は小林秀知と益田孝である。
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(4) 碑文(台座)
碑の台座には、この碑の建立にあたっての発起者の名が記されている。そこには三池炭鉱の関係者、地元の政界経済界の有力者の名を見ることができる。 | ![]() |
3.碑についての詳細 |
3.1 碑文に書かれた三池炭鉱の歴史碑文に基づいて、官営時代の三池炭鉱の歴史の概略を整理する。 (1) 前史
三池炭鉱は、文明元(1469)年に発見されたと伝えられている。その後、江戸時代には柳河藩の小野家が平野山(高取山)を、三池藩が稲荷山と生山を開坑経営していた。 (2) 三池炭鉱の官収(明治6(1873)年)
明治6(1873)年に三池炭鉱は官収され、工部省の管理下に置かれた。工部省とは明治3(1870)年から明治18(1885)年まで設置され、殖産興業の為に交通・鉱工業部門を管掌した官庁である。 これに対応して、炭鉱を経営管理する役所として、鉱山寮の支庁が置かれた。なお明治10(1877)年以降は三池鉱山分局、明治16(1883)年以降は三池鉱山局と称されている(明治19(1886)年の1月から4月は鉱山鉱業所)。 役所が置かれたのは下里村字谷尻(現、泉町)で、三池藩の石炭会所の跡である。なお下里村は、今の橋口町から上官町にかけて、大牟田川の南西に位置する地域にあたる。 (3) 大浦坑の開鑿(明治6(1873)年)
碑には、三池炭鉱が官収された明治6(1873)年に大浦坑が開かれたとある。しかし大浦坑の開坑は、江戸時代の末期、安政4(1857)年である。ところが明治5(1872)年に坑道が水没して、一旦は廃坑となっていた。それが官収された後、再び採掘が開始されることになる。碑文はこれを差しているものと思われる。 その後、明治11(1878)年に新たな斜坑が完成し、蒸気動力による捲揚機の使用も同時に始まった。
(4) 石炭の海外輸出開始(明治9(1876)年)
碑には明治9(1876)年から石炭販売を三井物産会社に依託した旨書かれている。しかし実際にはこの年の9月に石炭の売却の委任契約を締結し、販売は翌年10月からから開始されている。石炭販売を依託した三井物産会社は、明治9(1876)年の7月に設立されたばかりであるが、これ以後、三井と三池炭鉱との結びつきが深まることとなる。三池炭鉱の石炭販売の契約は何度か改定されているが、ほとんどが三井物産会社が請負っており、更には鉱山局需要品購入についても三井物産会社と契約を結んでいる。 碑にも記されている通り、当時は石炭を遠方に出荷する際、島原半島南端の口之津港まで艀のような小舟で運び、ここで大型船に積替えていた。大牟田で船積しなかったのは、大牟田沿岸は遠浅で干満の差が大きく、大型船が接岸できる港がなかったためである。これは江戸時代でも同様で、明治41(1908)年に閘門を持った三池港が築かれて干潮時でも大型船が停泊できるようになるまで、口之津港での積替えが行われていた。 (5) 七浦坑の開鑿(明治15(1882)年)
明治12(1879)年に開鑿が着手された七浦坑の第一竪坑が、明治15(1882)年6月に着炭した。操業の開始は明治16(1883)年1月のことである。七浦坑は大浦坑とともに官営期を通じて主力坑となり、一時その出炭は三池炭鉱の約9割を占めたという(『男たちの世紀』p.16) 七浦坑は現在の合成町に位置していた。現在は工場敷地内にあるため、立入ることはできないが、第一竪坑の捲揚機室を遠望することができる。
(6) 三池集治監の設置(明治16(1883)年)
三池炭鉱が官営化されてから、安定的な労働力を確保するために、坑口近くに近隣県の監獄の出張所を設け、受刑者を労働力に充てていた。明治16(1883)年に長期囚を収監する三池集治監が置かれ、ここの受刑者が炭鉱労働の中心となった。明治22(1889)年の払い下げ当時に約3300人の労働者がいたが、そのうち2100人が囚人だったという。 囚人労働は三井への払下げ後も継続し、昭和5(1930)年まで行われていた。三池集治監は三池監獄、三池刑務所と改称された後、昭和6(1931)年に廃止され、現在その敷地は三池工業高校となっている。当時の遺構としては外壁、石垣が残されている。
(7) 大蔵省への移管(明治19(1886)年)
当初、三池炭鉱は工部省に属していた。明治18(1885)年に工部省が廃止されたために、一時農商務省に属した後、明治19(2886)年に大蔵省の所管となっている。碑には事業の面目が一新したとあるが、詳細は不明。 (8) 宮浦坑の開鑿(明治20(1887)年)
官営化後、3番目の開坑となる宮浦坑は、明治20(1887)年2月に第一竪坑の開鑿が始められ同年8月に着炭した。翌明治21(1888)年3月に竣工し4月から操業が開始された。大正13(1924)年に大斜坑が建設され、昭和43(1968)年まで操業されていた。 現在、敷地の一画が宮浦石炭記念公園として整備され、煙突、大斜坑のプラットホームなどが残されている。
(9) 三井への払下げ(明治22(1889)年)
明治21(1888)年に三池炭坑払下げの入札が行われ、それまで石炭輸出などに関係してきた三井が落札した。明治22(1889)年から三井による経営が開始され、三井炭礦社が設立された。事務長には團琢磨が就任した。 官営化された当初の出炭量は、明治7(1873)年度で6.6万トンであったが、明治20(1887)年度には32.7万トンにまで伸びている。 |
3.2 碑に書かれている人物(1) 三池炭山創業當事者 松方正義(1835〜1924) 旧薩摩藩士。主に財政面で貢献した政治家で、紙幣整理(1881-1904)や金本位制の確立、日本銀行の設立(1882)、官営事業の払下げなどを実施した。
小林秀知(1836-1908) 旧長州藩士。官営時代の事業計画の立案実施は、小林の強い主導の下で行われていた。
益田孝(1848-1938) 佐渡の生まれ。三井財閥の発展に寄与した人物である。
(2) 建碑の発起人(三池炭鉱関係者) 団琢磨(1858-1932)
小山筧
吉原正道(1853-1927)
武内由章
内苑竹七
山縣宗一
(3) 建碑の発起人(地元関係者) 野田卯太郎(1853-1927)
福井福太郎(1856-1918)
森時三郎(1857-1924)
村尾信雄(1857-1934)
野口忠太郎(1865-1931)
坂井真澄(1854-1936)
小野吾一郎 永松閑
大淵頼母
(4) 建碑の発起人(不祥) 浅井義覺 服部種次郎 藤田董四郎 野口嘉一郎 百崎俊雄 森竹次郎 山本繁太郎 原儀八 3.3 笹林公園かつては小高い丘であり、笹林山と呼ばれていた。大正3(1914)年から公園化の工事が始まり、さらに昭和10(1935)年に高台地が削られて笹林小学校と公園がつくられた。市史によると、創業碑は公園になる前は山頂に横倒しに置かれていたという。 (『大牟田の地名』p.96、『大牟田の歴史散歩物語』上巻, p.7、『大牟田市史』下巻, p.452) |
4.隣接して建てられている記念碑 |
三池炭山創業碑に隣接して、笹林公園内には忠魂碑、所謂爆発赤痢の慰霊塔が建てられている。 |
(1) 忠魂碑
三池炭山創業碑の右隣に立っている。碑には「海軍大将 伯爵 東郷平八郎 書」とあるが、日付はなく、建立がいつの時点かはっきりしないが、他市の例を見ると大牟田同様に東郷大将の筆になる
ものが広島・福井に見られる。また別の軍人の筆になる碑文を持つ忠魂碑もあるが、インターネットで調べる限りでは東郷
の筆になるものが多い。
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(2) 慰霊塔
昭和12(1937)年に起こった、いわゆる爆発赤痢犠牲者の慰霊碑である。碑陰には次の様に記されている。
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時これ昭和12(1937)年9月25日、あたかも支那事変(日中戦争)勃発して三月、全市をあげて銃後任務の遂行に邁進せるとき、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疾の魔手におおわれたり。ここに昨日まで大産業都市として殷賑を極めし本市はたちまちにして阿鼻叫喚のちまたと化し、官民必死の防疫にもかかわらず、ついに一万数千の罹患者を出し712名の精魂を奪わる。 追憶すれば当時の惨状いまだ彷佛として眼前にあり。愛憐痛惜の情、切々として時涙転禁じがたし。すなわちここに慰霊のため、建碑の工を起こせしゆえんなり。後昆(こうこん:後世)、この碑を仰ぐ者、とこしえにこれら病没者の冥福を祈り、この惨禍をして転禍為福(禍転じて福となす)の実たらしめば、建碑の業また徒爾(とじ:無意味)ならずとせんや。爾云(しかいう:以上)。 |
参考文献 |
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